兵庫県・淡路島で生まれ育った渡瀬は、早稲田大学法学部を除籍後、電通PRセンターに入社した。このとき、すでに兄・渡は日活所属のスターだったが、渡瀬自身は芸能界にはまったく興味はなかったという。だが、東映の故・岡田茂社長から熱烈な勧誘を受け、役者の世界へと飛び込んだ。
かつて渡瀬は当時の心境をこう語っていた。
〈サラリーマンをやっているときに、俳優である兄の給与を見て愕然としたからですよ。だって、当時、大卒の初任給が2万3000円ぐらいのときに、兄は1日に2万も3万ももらってたんですから(笑)。うらやましくてね〉(『BIG tomorrow』2009年10月号)
1970年、デビュー作となる映画『殺し屋人別帳』でいきなり主演に抜擢。しかし、待ち受けていたのは「スター・渡哲也の弟」というレッテルだった。役者として兄とは違う道を進むために、渡瀬は流れ者や博打打ち、ヤクザ、不良など、血気盛んなアウトローに体当たりで挑んだ。2011年に渡とドラマ『帰郷』(TBS系)で共演した際、渡瀬は笑いながらこう語っていた。
「兄貴程度の芝居しかできなかったら、とっくに消えていただろう」
渡瀬を主役にすえ、幾多の名作を世に送り出してきた映画監督・中島貞夫氏が懐かしむ。
「『鉄砲玉の美学』(1973年)の時は、僕が新しい映画を作るという噂を聞いて、『監督、なんかやるんだって? 俺、やるよ』って僕に付きまとってきて(笑い)。予算がない映画だったから『ノーギャラだぞ』と話しても、意志は変わらなかった。しかも劇用車が必要だといったら、恒さんが東京からロケ地の九州まで車を運転してきてくれてね。とにかくがむしゃらでした」
カーアクションが話題を呼んだ映画『狂った野獣』(1976年)では、渡瀬はわずか1週間で大型免許を取得してバスで京都市内を暴走する撮影に臨んだ。バスが横転する危険なシーンでも、渡瀬はスタントマンによる代役を拒否した。
「『スターなんだから、ケガしたらどうするんだ』と止めたんだけど、どうしても『俺にやらせろ! 何のために免許取ったと思う? バスをひっくり返すためだ!』といってきかないんです。映画の大画面だと本人が運転していると分かるのよ。いま観ても凄いシーンだね」(同前)
だが、そのリアルさの追求は死の危険と隣り合わせだった。1977年の映画『北陸代理戦争』(深作欣二監督)では、雪原で転倒したジープの下敷きになり、生死の淵をさまよう大怪我を負っている。
※週刊ポスト2017年4月7日号