◆500年間、伝え続けられてきた
黒川能がブームになったのは、今から50年ほど前のことだ。昭和40年に雑誌『太陽』に取り上げられてから話題となり、舞台を見ようと多くの観光客が辺境の地である黒川に押し寄せた。能を知らない人でも「黒川能」というと、どこかで聞いたことがあると思う人がいるのはそのためだ。山形県の中でも、日本海側に位置する鶴岡市郊外の黒川という寒村に、非常に古い形の能が残っていたのは一種の衝撃をもって日本全国に伝えられたのである。
能という演劇自体、600年以上前の成立とかなり古いものであるのだが、その間まったく変化しなかったわけではない。最初は他の雑芸と同じようにエンタメ性の高いものだったと推測されるが、江戸時代に「武士の芸能」として保護されたあたりから、禁欲的で格式ばったものになっていく。
例えば上演時間にしても、江戸時代にはいる前までは一曲30分ほどだったのがだんだん延びていき、現代では大体一時間半ほどかかる。古典芸能といっても、このように時代とともに変化しているのだが、黒川能についてはかなり昔のまま残っている。黒川の能の歴史は、実に500年と言われ、中央では長い歴史の中で観世流はじめ五流に分かれているが、分かれる前の形式が残っているのではないかとも言われている。
黒川能といっても上座と下座に分かれており、それぞれ近所だから私的な交流はあるが、芸の上ではほとんど交流がない。下座のトップである太夫の上野由部さん(64)は、中学校の校長先生をしていた。
「私は6歳で初舞台を踏みました。みな幼い頃からやってますが、大体、高校生になると一度やめてしまいます。私も就職するまで8年ほど離れていました。故郷に帰ってくると、また始める人が多いです。過疎化で子供は減っていますが、黒川はまだマシな方ですね」
みなそれぞれ仕事をもっての演能なので、稽古は大変ではないだろうか。
「それほどでもない。若い頃に舞台をキッチリやってますから、普段はあまり稽古しません。週に二回くらいかな。上演の一カ月くらい前から集中的にやります。昔の人の方が安定感ありましたね。昔の80代なんて、謡は全て暗記してたから。ただ地謡(コーラス)に合わせる技術は今の方が高いと思います。昔はみな個性的だったのでバラバラでした」