国際情報誌SAPIOの人気連載『日本の芸能を旅する』最終回は能楽(山形・鶴岡)編。ノンフィクション作家・上原善広氏が山形県鶴岡市郊外、月山の麓にある黒川地区を訪ね、500年前の古い形を今も残す「黒川能」を受け継ぐ人々の話を聞いた。
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初めて黒川能を見たときは衝撃だった。
神社の社殿の中で上演されたのを見たのだが、上演が始まるとまず、どこからともなくお燗された酒が何度も回ってくるのだ。
不思議に思って一杯、二杯といただいたのだが、そのうちオニギリが配られてきた。上演中なので躊躇していると、みな観劇しながらオニギリを頬張りだしたので、客に対する接待なのだと気が付いた。東京などでお行儀良く舞台を見ることに慣れていたので、これにはびっくりした。隅では煙草を吸っている老人もいる。
なんと大らかなのだろう。しかし、昔はどこでもこうして酒を飲み、握り飯を食べながら能を見ていたのだろうと思うと、タイムスリップしたような不思議な感動があった。上演されている能も、中央(東京)に比べてかなり異様だ。まずひどく訛っている。
例えば「富士の御狩りに」というセリフは「フズのミカリに」となっている。囃子方(はやしかた)の掛け声も、中央だと「イヤー」「オウッ」など気合いが入った鋭いものだが、黒川能は「アイヤー、ハーハー」と気の抜けたゆるいテンポが延々と続き、合間にポンポンと鼓を叩く。中央ではカーンッと高く鳴らされる大鼓も、「コーンッ」と軽い。万事がゆるく、庶民がリラックスして聞けるようになっている。
演者は村の人々で素人なのだが、幼い頃より仕込まれているのでその芸は確かなものだ。しかしどこかのんびりしていて、昔の能もこのようなものであったのだろうと、再び感動させられる。