◆梅雨は耐えて、夏に打つ
現役時代は攻守走そろった名選手として“南海ホークスの顔”だった広瀬叔功氏は、1964年に89試合目まで打率4割をキープしたことがある(シーズン終了時3割6分6厘)。この記録は、クロマティに抜かれるまで最長だった。
なぜ最後まで維持できなかったのか。広瀬氏が振り返る。
「あの年は、A級10年選手(同一球団で10年以上プレーした選手にボーナス受給権か自由移籍権が与えられた)を取得する年で、ボーナスを手にしてやろうとシーズン前から猛練習したんです。後にも先にもあれほど練習したことはなかった。だから開幕直後から絶好調だった。ところが、慣れないことをしたので、手首に疲労がたまっていたんでしょう。6月に尾崎行雄(東映フライヤーズ)のストレートを打ち返し二塁打を打った時に、手首を痛めてしまった。
マスコミが“4割バッター”と騒ぐので、痛み止めの処置をしてもらいながら、無理して打席に立ちました。よく『故障しなかったら……』といわれますが、野球には“たられば”はないんです。そういう意味でも、4割を達成できなかったのは実力です」
チームが優勝争いをしていて、治療に専念もできなかった。今季不調の日本ハムが、シーズン後半にどの位置にいるかも、近藤の打率の推移を左右しそうだ。