私は最初、それが政治的に安全なところを狙ったものかと思ったのだが、東山と対話を重ねるうちに、日本人、台湾人、中国人という国籍の符号のどれにも属せない存在ゆえの、本音レベルの「困惑」なのではないかと気付いた。
「台湾で生まれ、日本で育ったという見方をしてくれるといいのですが、『台湾人としてどう思うか』と聞かれても、こまっちゃうんです。日本人かと言われても違う。一時が万事、曖昧な状態なので、うまく定義できないんです」
しかし、そんな東山だからこそ、『流』という傑作が生まれた、ということも言える。私が『流』を読んだとき、最初に想起したのは中国語の「江湖」という2文字だった。日本語に訳すとすれば「世間」とか「渡世」だが、裏社会のニュアンスがある。
爽快な暴力。破天荒な主人公。交錯する生死。中国大陸に長く根付いてきたアウトローの江湖文化の匂いが、色濃く、『流』の行間から立ち込めてくる。日本人に「江湖」の概念を説明するのは難しいが、江湖文学とも言える「水滸伝」の浪人たちの権力との戦いや「三国志」で劉備玄徳らが行う義兄弟の誓いを思い浮かべればいい。
中国の歴史物で活躍する「江湖人」の内面を描き続ける作家・北方謙三が直木賞選考委員として「20年に一度の傑作」という言葉で『流』を激賞したのは、確かに納得のいく話である。
東山自身にも、どこか「江湖」の気風を漂わせる「圧」を私は感じる。それは、いまの作家に珍しい無頼派の荒々しさであり、東山という台湾生まれの作家の存在感に日本の読者が惹きつけられる一因ではないだろうか。それは江湖のDNAを保存してきた東山の血統が生み出すものである。東山自身、その点をいささか誇らしげに語る。