黒木瞳、夏目雅子、松坂慶子、名取裕子、十朱幸代……かつて銀幕を彩った女優たちは、みな体当たりの濡れ場に挑戦してきた。しかし最近の日本映画では、後世に語り継がれるようなな濡れ場を演じる女優は少ない。なぜ“濡れ場”は減ってしまったのか?
大島渚監督の名作『愛のコリーダ』(1976年)無修正版の生々しい性描写を誌上再現した6月23日号の特集には、読者から大きな反響があった。ヘアも解禁されていなかった時代に“性表現の限界”に真正面から挑んだ大島監督はもちろん、日本初の「本番撮影」に臨んだ藤竜也と松岡暎子には感服するほかない。とりわけ自らの秘部への男根の“抜き差し”まで露わにした松岡の女優魂は、時代を超えても決して色あせることはないだろう。
体当たりで濡れ場を演じていたのは、彼女だけではない。過去には人気絶頂の有名女優も、若手の清純派女優も、そしてすでに地位を確立していた大女優でさえも、作品をより高めるために一肌脱いでいた。映画評論家の秋本鉄次氏はこう語る。
「現在の大物女優たちは、若い頃、濡れ場を厭わなかった。20~40年前までは、高名な監督の作品に出演するなら“脱ぐのは覚悟の上”というのが当たり前の時代だった。名監督に請われて脱がされるのは女優としてむしろ誇らしいことでした。
信頼する監督のもとですべてをさらけ出し、男女の抜き差しならない関係や情念、命をかけたギリギリの衝動を表現するために、全身全霊をかけてセックスシーンを演じる。そうやって女優は成長していったのです」
だが、近年、有名女優が銀幕に肌を晒す機会はほとんど見かけなくなってしまった。その背景には何があるのか。前出・秋本氏が続ける。