山口県在住の郷土史家で作家の堀雅昭氏もこう解説する。
「長州では明治維新前夜から廃仏毀釈的な風潮があり、高杉晋作らが結成した奇兵隊の隊士に刀で首を切られた地蔵なども残っています。また『神罰』だといって殺された僧侶もいる。ただ、現代の視点から見れば『ひどい宗教弾圧だ』と感じるかもしれませんが、江戸時代の仏教は幕府権力と結びつきが強すぎたため、『廃仏毀釈は新時代建設のための反体制運動だった』という視点から見る必要もある」
江戸時代の長く続いた平和の中で仏教界の規律は緩み、幕末ともなると飲酒や女性交際、各種の豪遊を行う僧侶も珍しい存在ではなくなっていた事実がある。明治新政府の神仏分離令は決して寺院の破壊を命じるようなものではなく、仏教界の腐敗に反感を持つ民衆の怒りが、結果的に廃仏毀釈運動の暴走を招いたとも言われている。
しかし廃仏毀釈によって失われた幾多の文化財は戻ってこない。明治新政府樹立の立役者である小松帯刀は、鹿児島県日置市の廃寺となった園林寺跡に今も眠っている。そこには破壊されたままの仏像が当時の激しさを静かに物語っている。
有名無名を問わず失われてしまった仏教文化財の多くを我々は目にすることはできないだろう。明治維新の意義はあるとしても、この時期に仏教美術、文化財が永劫に失われてしまったのも事実なのである。冒頭に記した、アメリカのオークションに出された興福寺の仏像は、匿名の外国人によって約6700万円で落札され、現在も日本には戻っていない。
※SAPIO2017年9月号