興福寺は廃寺同然となり、今では多くの観光客を集める国宝・五重塔も一時売りに出されるほどだった。その額はたった25円(現在の価値で約100万円ほど)という。しかも、購入しようとした者は当初、解体費用がないので塔に火を点けて燃やし、焼け残った金属を取ろうとしたという。これは採算が合わず諦めたとも、類焼を恐れる周辺からの反対で諦めたとも言われている。そして、この興福寺のエピソードは決して特殊な例ではない。
三重県・伊勢神宮と密接な関係にあった慶光院は1869年に廃寺に。京都市内の愛宕山にあった白雲寺も廃絶させられ、「愛宕神社」に変えられた。全国各地の寺院で存亡の受難があり、その際、破壊や流出などで失われた仏像や経典などは膨大な数に上る。
京都観光の中心地にあり、鴨川にかかる四条大橋は、1874年にそれまでの石造りから鉄製のものへ造り替えられた。使用された金属は廃絶させられた寺院の仏具を溶かした金属を材料に建設されたものだった。
さらに尊皇攘夷思想が盛んだった地域では、廃仏毀釈の勢いは苛烈だった。薩摩藩・島津家の菩提寺である福昌寺は、最盛期に千数百人の僧侶がいた大寺院だったが、明治維新とともに、島津家の同意のもとに廃絶。そのほか薩摩藩内ではほとんどすべての寺院・仏像が破壊され、一時は僧侶と寺院の数がゼロになった。長州藩でも暴風は吹き荒れた。山口県内のある寺院の住職が語る。
「明治維新とともに近くの神社の神主が『お前の寺の檀家を、うちの神社の氏子としてよこせ』とやってきて、実際にかなりの檀家さんがいなくなったという記録が残っています。寺の経済基盤もガタガタになり、いろいろな文化財も散逸しました」