卒業してだいぶ経ってから当時の教官のひとりから聞いたことがあります。その教官は、「25点以下が落第で、お前は25点だったが、もしかしたら大物になるかもしれないと思い、俺が1点足して26点にしたんだ」と言うのです。つまり私は、謙遜でもなんでもなく、本当にギリギリの成績で保安大学校に合格したわけです(笑)。
◆“オヤジ”こと吉田茂の遺訓
多士済々、もしくは玉石混合の1期生でしたが、誰もが「新しい自衛隊は、我々が作るんだ」という自覚を非常に強く持っていました。旧軍の教官が「昔はだなあ」などと話し出すと、我々は「敗軍の将、兵を語らず」などと言い返しこともあったほどです。教官たちは、さぞやりにくかったことでしょう。もちろん、今考えれば教官たちのほとんどが、立派な人たちでした。よく私たちの暴言に耐えておられた。申し訳なかったなと、今になって思います。
では、なぜ1期生が「新しい自衛隊は、我々が作るんだ」と強く思っていたかといえば、やはり当時の総理大臣、吉田茂が「新しい軍隊は君たちで作るんだ」と訓示していたからに他なりません。
総理大臣が防衛大の卒業式に来校し訓示を行うことが恒例となっていますが、1期生の我々は4年間の在学中に3度も訓示を受けています。ある時は、「時間が取れたから」と突然来校し、学生食堂で学生と同じテーブルで総理は食事を摂りました。その際、槇(智雄)校長が、「本校創設には種々のご指導とご助言を与えられた、いわば本校の生みの親とも申すべきお方」と紹介すると、吉田茂は「もし私が生みの親ならば、君たちは不肖の息子になることなかれ」とジョークで場を盛り上げて話し出したのです。「君たちに期待する。民主主義の新しい軍隊を作ってもらいたい」と。以来、私たちは吉田茂を“オヤジさん”と呼ぶようになりました。
私には、今でも忘れられない吉田茂の言葉があります。
一期生の卒業アルバムの編集長だった私は、無理を承知で槇校長に「吉田茂の写真をアルバムに掲載したい」とお願いしたのです。すると吉田茂は快諾し、さらに「どんな学生ができたか直接話がしたいので、是非とも学生をよこすように」と、私を含めた3人の代表が大磯の吉田邸を訪問することになったのです。