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2017.12.06 16:00  週刊ポスト

【著者に訊け】原田マハ氏 『たゆたえども沈まず』

 物語は1886年1月、東京開成学校を首席で出た重吉がパリに降り立つ場面で始まる。校内有数の秀才・忠正はパリの美しさを唯一語り合えた先輩で、重吉が出世コースの英国公費留学を蹴ったのも、〈イギリスには、パリがないから〉。そんな彼を忠正はパリに呼び、助手に雇ってくれたのだ。

 一方グーピル商会の若き支配人テオは、悶々としていた。同社では芸術アカデミー会員の作品を専ら扱い、今話題の印象派など、〈ぼさぼさに毛羽立ったような色の絵〉扱い。彼自身は印象派にも浮世絵にも興味津々だけに、虚しさは募った。

「第三共和制下のパリには世紀末特有の空気があって、アカデミーとどう訣別するか、アーティストは皆もがいていた。そこに入ってきたのが浮世絵で、見たこともない色や構図や遠近法に、敏感な人ほど夢中でした。

 今回上野でのゴッホ展でも忠正が寄稿した『パリ・イリュストレ』誌が公開中ですけど、その表紙に掲載された渓斎英泉の『雲竜打掛の花魁』が鉄道網で各都市に出回るなど、インフラの革新がうまくハマった面もある。そしてその新しさに飛びついた新興画家の中に、ゴッホもいたんです」

◆極限状態で描いたゴッホの奇蹟の絵

 さて画商等を経て27歳で画家を志したフィンセントは、生活を弟の仕送りに頼る中、86年から2年間をパリで過ごす。そしてゴーギャンとの同居生活や〈耳切り事件〉で知られるアルル時代や、サン=レミの療養所時代を経て37歳で命を絶つ。だが実際に忠正と接触した証拠は今のところない。

「ただ、例の『花魁図』をフィンセントが模写していたり、この3人がごく近くにいたのは事実なんですね。私はいつも名画が生まれる瞬間に立ち会いたい一心で小説を書いています。もちろん歴史やアーティストに対する愛と敬意が前提ですが。だから耳切り事件や兄が自殺した時のテオの傍で、力になろうとした重吉は私自身の分身でもある」

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