17歳で島津藩に出仕し、やがて江戸に出府する藩主斉彬から「庭方役」に抜擢される。身分の低い藩士が庭先などで藩主らと接触できる役職で、西郷は斉彬から諜報を命じられた。これが西郷の「全国区デビュー」となり、その後の人生を決めた。黒船来航以降の動乱の中、他藩の実力者と交わるうちに最終的に倒幕の中心人物となり、明治政府樹立直後の戊辰戦争では、政府軍を指揮し、江戸城の無血開城を実現させるなど比類なき政治力も発揮した。西郷はこうして明治維新の大功労者となった。
だが、そこに至る道は波瀾そのものであり、私に言わせれば、実は失敗の連続である。
斉彬の命を受けて一橋慶喜を第14代将軍に擁立すべく工作に奔走したが、実現しなかった。大恩ある斉彬が急死し、諫められて思いとどまったが、一時は殉死を考えた。その後、大老井伊直弼が反幕派を弾圧する「安政の大獄」が始まり、西郷が敬愛する尊皇攘夷の僧月照にも身の危険が迫った。西郷は月照を薩摩に匿うが、追い詰められて絶望し、桜島を望む錦江湾に2人で飛び込み、入水自殺を図る。助けられ、西郷だけが命を取り留めた。だが、藩命によって奄美大島に潜居させられ、さらに斉彬の異母弟、久光の命に従わなかったため、徳之島、次いで沖永良部島への流刑に処せられたのだ。
◆命もいらず、名もいらず──野に下り、故郷に散った巨星
維新後、西郷は新政府から再三請われ、明治5(1872)年、参議兼陸軍元帥・近衛都督となる。だが、明治6(1873)年、関係が断絶していた朝鮮への対応を巡って政府内が対立し、敗れた西郷はすべての職を辞し、野に下る。最後にして最大の波瀾が起こるのはこの後だ。
帰郷した西郷が、士族に求められて設立したのが銃隊学校、砲隊学校などからなる「私学校」だ。「私」とつくが事実上の公立で、県内各地に130以上の分校ができ、1万人以上の若者が集まった。