90代の男性は、若いうちに死を間近に感じる体験をした。特攻隊の生き残りだったのだ。
1945年8月、彼は魚雷に乗って敵艦に体当たりする日を待っていた。しかし、乗っていくはずの潜水艦が天候不順と燃料不足で遅れた。それを待つ間、終戦を迎えた。数日の違いで、命がつながったのだ。
「死ぬのは怖くなかったですか」と聞くと、「もちろん、怖かった」と男性は答えた。でも、家族のため、ふるさとのためと考えると、不思議と恐怖は薄れた。国のためというよりは、もっと身近な、自分にとって大切な人たちを守りたいという思いが強かったという。
戦争が終わって、不動産業を営み、小さな成功を収めた。特攻で死んでいったたくさんの先輩たちに申し訳ないという思いで、一生懸命生きてきた。
「いつ、あの世からお迎えが来てもいい」と思いながら、90歳を超えた。末期がんで緩和ケア病棟に入院したが、ぼくが回診に行くといつも笑顔で迎えてくれた。時々、一時退院して、自分で身の周りの整理をしていた。見事な死だった。
死ぬときに何を残すか。それは、それぞれの価値観が大きくかかわっている。財を残すのも一つの生き方かもしれない。でも、ぼくは形あるものよりも、自分の生きざまを残すことのほうに魅かれる。限りある命の時間を、やりたいことをして命を燃やしたい。
お金は、そのための単なる道具に過ぎない。フランシス・ベーコンは「金銭は肥料のようなもので、ばら撒かなければ役に立たない。先行きの不安にとらわれず、明るい明日にお金を使おう」と言っているが、とても納得できる。