片山:天皇制をキリスト教と比較する視点は、とても大切です。明治以降の天皇のあり方には『古事記』や『日本書紀』などの解釈ももちろん含まれています。しかしそれ以上に江戸時代にキリスト教を知る儒学者や国学者の考え方の影響が大きかった。
たとえば、本居宣長たちは、天照大神は太陽そのもので、天皇は太陽の分身であると考えていた。儒教の天とキリスト教の神。それから中国の皇帝と日本の天皇……。それぞれの特異性と共通性を照らし合わせながら、近代の天皇像を作り上げていったんです。
佐藤:キリスト教では腐敗した神父が行った儀式が、無効なのか、有効なのか、古くから意見を戦わせてきました。無効とする見解が異端派の人効説(注)で、行為自体が重要なのだから神父が腐敗しているか否かは関係ないと考えるのが、正統派の事効説(注)です。
天皇の議論を置き換えると、今上天皇の意向や人間性を活かした平和や民主主義を重視するのが人効説で、どんな天皇でもただ祈っていればいいと考えるのが事効説と言える。
【注/人効説・事効説は、キリスト教で古くから議論されてきた考え方。事効説は執り行われた儀式自体に意味があると考え、人効説は儀式の有効性はそれを執行した神父の人格に左右されるとする。】
片山:事効説の方が明治の天皇制により強くつながってくる。その反動として人間天皇論は人効説的と言えますが、象徴天皇を単なる記号としてみたい人たちは事効説的なのでしょうね。