皇太子一覧

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ご結婚29年を迎えられる天皇皇后両陛下 絆を結んだ「24の愛のお言葉」
ご結婚29年を迎えられる天皇皇后両陛下 絆を結んだ「24の愛のお言葉」
 6月9日に、ご結婚から29年を迎えられる天皇皇后両陛下。ご婚約会見での、「安らぎのある明るい家庭を築いていきたい」という陛下(当時は皇太子)のお言葉通りの家庭を築かれてきた。 ご結婚25年の折には、「家族とは日々の楽しみを分かち合うことは元より、大変なことがあるときには支え合い、またうれしいことがあるときには喜びを分かち合える、かけがえのない存在であると思います」と明かされた雅子さま。いかなるときも常に支え合って歩まれてきたご夫婦の愛と絆の29年を、数々のお言葉から紐解きます。ご公務への想い「限られた時間の中でできるだけ多くのことを一人ひとりの方から引き出していくことができれば、それは最終的には私自身にとっても大変大きな糧となると思っております」(2014年 皇太子殿下お誕生日に際して)「なるべく多くの方と自然な形で触れ合い、お話をすることができればうれしく思います」(1999年 皇太子妃殿下お誕生日に際して)「私たち二人を温かい笑顔でお迎えいただいたことはとてもうれしく、また雅子にとっても大きな励みともなり、有り難く思います」(2018年 皇太子殿下お誕生日に際して)「皆様からかけていただいた声を身近に感じることも多く、国民の皆様のお気持ちは私にとりまして大きな支えになっております」(2018年 皇太子妃殿下お誕生日に際して)「多くの国民の皆さんと直接触れ合うことが 極めて難しくなっていることを、私たち二人も 残念に思っております」(2021年 天皇陛下お誕生日に際して)ご夫婦の絆「私たち二人の場合、できるだけお互い話し合うことにしております」(1999年 皇太子殿下お誕生日に際して)「全力で守っているかどうかということに関しては、私ができることでは、全力でこれを実行しているように思っております」(1994年 皇太子殿下お誕生日に際して)「日常の生活では皇太子殿下には何事についても、なるべくよくご相談をするようにということを心掛けております」(1996年 皇太子妃殿下お誕生日に際して)「よく『夫婦喧嘩は犬も食わぬ』と申しますけれども、喧嘩の種は割とよく拾って食べてくれるような気がいたします」(1998年 皇太子妃殿下お誕生日に際して)「実は犬の方がより良くお供をして。犬はちゃんと走ってお供をするのですけれども、私は自転車でお供をしたり……」(1997年 皇太子妃殿下お誕生日に際して)「共通の関心事を持つことが夫婦の絆を強めることにも貢献しているのではないかというふうにも思います」(1999年 皇太子殿下お誕生日に際して)「愛子が加わります前には殿下とごいっしょして、二人での登山や自然の中での散策、音楽などいろいろな楽しみを教えていただきました」(2018年 ご結婚満25年に際して)「感謝したい点は、まず雅子がそこにいてくれることです。雅子がいてくれるだけで心が明るくなるのを感じます。ユーモアがあるのもうれしいことです」(2003年 ご成婚10年に際して)「お互いによく話し合い、また、大変な時にも『笑い』を生活の中で忘れないように、ということだと思います」(2018年 ご結婚満25年に際して)「結婚10年の折の『努力賞』と『感謝状』のダブル 受賞に加えて、銀婚式に因んで銀メダルも 贈りたいと思います」(2018年 ご結婚満25年に際して)「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」(2004年 デンマーク・ポルトガル・スペイン訪問に際して)「親として愛子のために何をしてあげられるのかという思いで、雅子と共に考え、歩んできました」(2011年 皇太子さまお誕生日に際して)「愛子が安心して学校に通うことができるようになるか、そのために親として何をしてあげられるのか日々考え、力を尽くしてまいりました」(2011年 皇太子妃殿下お誕生日に際して)お二人での育児「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」(2002年 愛子内親王ご誕生について)「おおらかな性格といいますか、皇太子さまに似ましたのか、何ていうのかしら、ゆったりと、どっしりとしております」(2002年 皇太子妃殿下お誕生日に際して)「父親は遊んでくれる相手と信じているようで、父親が寝かしつけようとするとどんどん目が輝いてきてしまうようなので」(2002年 愛子内親王1才のお誕生日に際して)「父親もできるだけ育児に参加することは母親の育児の負担を軽くすることのみならず、子供との触れ合いを深める上でもとても良いことだと思います」(2003年 皇太子殿下お誕生日に際して)「本当に素晴らしいお父様ぶりで、愛子も皇太子さまに大変なついております」(2003年 ご成婚10年に際して)「愛子と3人でいると、私たちの団らんは笑いの絶えない楽しいものになっています」(2022年 天皇陛下お誕生日に際して)撮影/雑誌協会代表取材、五十嵐美弥 写真/宮内庁提供、時事通信社、共同通信社※女性セブン2022年6月16日号
2022.06.02 19:00
女性セブン
「沖縄には、今なお様々な課題が残されています」と、陛下は沖縄の今後についても言及された(宮内庁提供)
沖縄本土復帰50周年 昭和、平成、令和と皇室で受け継がれる沖縄への祈り
 沖縄県が本土に復帰してから、5月15日で50年。その節目に合わせて行われた「沖縄復帰50周年記念式典」に天皇皇后両陛下がオンラインで出席された。「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから』の思いを深められたと伺っています」 天皇陛下は式典で“命こそ宝”という意味の方言を用いながら、沖縄の人々へお言葉を寄せられた。「忘れてはならない4つの日」の1つに、沖縄慰霊の日(6月23日)を掲げるほどに、皇室にとって沖縄は思い入れの深い場所でもある。次ページからは、昭和・平成・令和と受け継がれてきた、沖縄への「祈りの歩み」を振り返る。【昭和天皇・香淳皇后】 いまから50年前の1972年5月15日、東京・日本武道館で行われた「沖縄復帰記念式典」に出席された昭和天皇と香淳皇后。沖縄訪問を悲願としていた昭和天皇だったが、体調を崩されその願いは叶わず。「祈りの旅」は上皇陛下へと受け継がれることとなる。【上皇ご夫妻】 本土返還から3年後に上皇ご夫妻が初めて沖縄を訪問された。戦争での遺族も多く複雑な感情の残る時代だったが、ご夫妻は“たとえ石を投げられたっていい”と沖縄入りを決めたという。「ひめゆりの塔」で献花された際、過激派の青年がご夫妻に向かって火炎瓶を投げつける事件があったが、退避され事なきを得、以後も現地の施設訪問を続けられた。 前年に「ひめゆりの塔事件」がありながらも、ご夫妻は翌年も続けて沖縄入りを果たされた。写真は沖縄海洋博覧会の閉会式の折に、伊江島芳魂之塔で黙祷を捧げられた際のもの。 沖縄・糸満市にある「沖縄平和祈念堂」を訪問され、歓迎の人たちにお言葉をかけられるご夫妻。10年にわたって訪問を続けられ、現地の人の受け入れ方にも変化が見て取れる。「沖縄平和祈念堂」を訪問された際、体調を崩され訪問が叶わなかった昭和天皇のお言葉を、皇太子(当時)として代読された。 平成の御代がわりを経て、天皇皇后として初めて沖縄を訪問されたご夫妻。名護厚生園(名護市)で入園者に声を掛けられたときの写真や首里城(那覇市)を訪れ、正殿内の「御差床(うさすか)」と呼ばれる御座所をご覧になったときの写真がある。 80才近くになられても沖縄訪問を続けられたご夫妻。糸満市にある「国立沖縄戦没者墓苑」を訪れ、犠牲者に白菊の花をささげられた。遺族らには「お体を大切に」などのお声をかけられたという。 平成の天皇皇后として最後となった沖縄訪問は退位の約1年前の2018年3月のこと。退位の直前まで訪問を続けられ、ご夫妻の沖縄訪問は計11回にも及んだ。【天皇ご一家】 天皇陛下が初めて沖縄を訪問されたのは、1987年のこと。今年5月15日の記念式典では「復帰から15年を経た昭和62年、国民体育大会夏季大会の折に初めて沖縄を訪れました。その当時と比べても、沖縄は発展を遂げ、県民生活も向上したと伺います」と述べられた。 沖縄が本土復帰25周年を迎えたタイミングで皇太子ご夫妻としてご訪問。おふたりがそろって沖縄を訪問されるのは初めてのことだった。写真は「平和祈念公園」内の「平和の礎(いしじ)」を前に慰霊された際のもの。 皇太子となられてからも慰霊を続けられた陛下。写真は国立沖縄戦没者墓苑で供花を終えられた際のもの。「豆記者」として派遣された沖縄と北海道の小中学生を東宮御所にお招きになり、歓談されたご一家。当時の愛子さまは中学3年生。同世代の記者たちと話し、笑顔を見せられた。【秋篠宮ご一家】 秋篠宮家ご長男悠仁さまは小学1年生のときに、試験休みを利用して沖縄初訪問。沖縄戦で亡くなった24万人超の名前が出身地別に刻まれた「平和の礎」を前に、悠仁さまは「東京都はどこ?」と尋ね、秋篠宮ご夫妻と一緒に探すなど熱心にご覧になっていた。 ご一家で沖縄の地上戦で犠牲になった人々を追悼する「地上戦と子どもたち追悼の集い」(東京・新宿)にご出席。佳子さまは会の終了後、関係者一人ひとりに「ありがとうございました」と話し掛けられていたという。「全国育樹祭」に合わせてご夫妻で沖縄ご訪問。令和の御代がわりを経て、皇嗣同妃両殿下となられてから初めてのことで、現地の豆記者とのご接見や国立沖縄戦没者墓苑へのご訪問も果たされた。撮影/雑誌協会代表取材 写真/宮内庁提供、時事通信社、共同通信社※女性セブン2022年6月2日号
2022.05.20 11:00
女性セブン
作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)
【逆説の日本史】「でっち上げ」で極刑に処せられた究極のアナキスト幸徳秋水
 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その6」をお届けする(第1339回)。 * * * これまで述べたように、明治天皇は儒教的名君をめざし、ひたすら徳を積むことをめざしていた。その天皇が「朕が不徳の致すところ」と生涯の汚点と考えたかもしれない大事件が、その治世の晩年に起こった。いわゆる大逆事件である。〈たいぎゃく-じけん【大逆事件】明治43年(1910)多数の社会主義者・無政府主義者が明治天皇の暗殺計画容疑で検挙された事件。大逆罪の名のもとに24名に死刑が宣告され、翌年1月、幸徳秋水ら12名が処刑された。幸徳事件。〉(『デジタル大辞泉』小学館刊) 大逆とは天皇に謀反を起こすことで、「天皇が神の子孫」と決定して以来、日本人にとって絶対に許すべからざる最大の罪であった。すでに述べたように、後に天武天皇となった大海人皇子が壬申の乱で倒した敵は大友「皇子」では無く、即位した天皇(弘文天皇)と考えられるのだが、『日本書紀』には大海人皇子が戦った敵はあくまで「皇子」で天皇では無い、と書かれてある。しかし、それを編纂したのは他ならぬ天武天皇の息子の舎人親王だから、ここはデタラメが書いてあると考えるのが合理的である。逆に言えば、そう書かざるを得ないほど大逆は日本人にとって重い罪だということだ。 明治になって日本が近代国家になると、大日本帝国刑法で大逆罪が設けられ法律上の罪にもなった。最初は刑法第一一六条に「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」と定められた。三后とは太皇太后、皇太后、皇后、つまり二代前の天皇の「皇后」までその範囲に含まれるということだ。逆に上皇が対象とされていないのは、この時代天皇は終身在位するからである。大日本帝国憲法、皇室典範の時代には上皇は存在しない。 条文を見ていただければわかるが、天皇を暗殺するどころかケガを負わせたり、あるいは未遂であっても死刑に処するという、他に類例を見ない厳しい罰則規定がある。しかも、大日本帝国憲法下においても現在の最高裁判所にあたる大審院は存在し三審制もあったのだが、この罪については大審院で一回だけ、しかも非公開で審理を行なうという即断即決の形になっていた。 もちろん、これでは冤罪を生みやすいと批判されても仕方が無いほど異例の規定であったのだが、これを社会主義者弾圧に用いようとした首相桂太郎にとっては、じつに好都合であった。こう言えばおわかりだと思うが、この大逆事件で逮捕された二十四名、死刑に処された十二名のうち四名以外は無実であった。とくに、事件の代名詞にもなっている幸徳秋水も暗殺計画は知っていたが参加はしなかったので、まったくの無実であった。ところが、証人喚問もしないスピード審理のデタラメ裁判で死刑に処されてしまったのである。 たしかに、このなかに明治天皇を殺そうとしたメンバーもいた。幸徳秋水の「パートナー」であった管野スガがそのリーダーだったのだが、ここで二人の経歴を紹介しておこう。〈こうとく-しゅうすい【幸徳秋水】[1871~1911]社会主義者。高知の生まれ。名は伝次郎。中江兆民の門下。明治34年(1901)社会民主党を結成、即日禁止される。日露戦争に反対し、堺利彦と「平民新聞」を創刊。のち、渡米。帰国後アナーキズムを主張。大逆事件で検挙、主犯として死刑になった。著「廿世紀之怪物帝国主義」「社会主義神髄」など。〉(『デジタル大辞泉』小学館刊)〈管野スガ かんのすが 1881-1911(明治14-44)明治の社会主義者。筆名須賀子、号は幽月。大阪生れ。鉱山師であった父の事業の失敗やみずからの離婚の不幸をへて《大阪新報》の記者となり、大阪婦人矯風会の林歌子の知遇をえて上京した。社会主義思想に近づき1904年平民社に堺利彦を訪ね、やがて紀州田辺の《牟婁新報》に入り、ここで荒畑寒村と結婚。08年赤旗事件で投獄されたのち幸徳秋水と恋愛同棲し、アナーキズムに共鳴、09年《自由思想》の発行に協力するが、発禁となる。天皇制政府のきびしい弾圧の下で直接行動に傾き、宮下太吉らと天皇暗殺を謀ったが、10年発覚し、翌年幸徳らとともに刑死(大逆事件)。獄中手記《死出の道艸》がある。〉(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者井手文子) 天皇暗殺を立案し実行の準備をしたのは、管野スガ、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人だけだったようだ。宮下太吉は、山梨県甲府市出身で機械工として働いていたが、同じく大逆事件で死刑になった僧侶内山愚童の著書『無政府共産』を読んで、天皇崇拝など愚かなことでこの制度を一刻も早く潰し民衆主体の国家を作るべきだと考えるようになった。主犯は管野スガでは無く、宮下のほうだという見解もある。暗殺の手段として爆弾投擲を考案したのも宮下で、工学的知識を活かし試作品の爆弾を製造し実験までしたという。計画が当局に察知されたきっかけは、この実験だった。ただし、この「爆弾」はおもちゃのようなもので殺傷能力は無かったという見解もある。 新村忠雄は、長野県の豪農の息子で早くから無神論者だった。幸徳秋水のもとで宮下と会い、意気投合し計画に加わった。ただし、当初の狙いは天皇では無く皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)だったという説もある。古河力作は、当初はメンバーに入っておらず爆弾の投擲者を決める段階で加わったとされており、冤罪だったという説がある。 とにかく、大逆事件なるものの実態はまさに管野、宮下、新村の三名を主体とした暗殺未遂事件にすぎなかったのだが、管野と同棲しその思想に影響を与えたとは言え計画には加わらなかった幸徳秋水、彼らの思想に影響を与えただけの内山愚童が共犯として処刑されただけで無く、幸徳の無政府主義に共感し交流があっただけのキリスト教徒大石誠之助や、大石と親しく地元の和歌山県新宮市で社会主義運動をやっていただけの成石平四郎、爆弾の製造法を聞かれただけの奥宮健之、社会主義運動家ではあったが暗殺未遂事件とは関わりない松尾卯一太と新美卯一郎らも死刑に処せられてしまった。つまり、桂内閣は実行犯四名の事件を死刑判決者だけでも二十四名に拡大し、死刑判決を受けた二十四名のうち半数の十二名は減刑したものの、十二名は判決六日後(菅野スガだけは七日後)に処刑してしまったのである。 この裁判は一審だけで、審理は公開されなかった。つまり国民はなにも知らされず、桂内閣の意を受けた検察官が無実の人間を大量に極刑に追いやったという、まさにやりたい放題のとんでもない事件であったのだ。言葉を換えて言えば、桂内閣いや首相桂太郎は権力側がもっとも冤罪をでっち上げやすい大逆罪を巧みに利用して社会主義勢力の大弾圧を図ったということだ。これが、異例の出世を遂げ公爵にまでなった「ニコポン」桂太郎のもう一つの顔である。 昭和になって、朱子学導入以来の「天皇の絶対化」の歴史を著書『現人神の創作者たち』で鋭く追究した評論家にして在野の歴史家山本七平は、大石誠之助の縁戚であった。しかも両親とも大石と同じ和歌山県新宮市の出身で、幸徳秋水ときわめて親しかった内村鑑三の直弟子のキリスト教徒であった。山本は『現人神の創作者たち』を書いた理由を、同書の「あとがき」で「私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦後と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく」と述べている。レーニンより早かった帝国主義分析 では、桂はなぜそこまでして社会主義者を弾圧しようとしたのか? 一言で言えば、それは日露戦争に勝つためであり、勝って欧米列強の仲間入りをするためであった。帝国主義への参入と言ってもいい。いまでは忘れられていると言ってもいいが、その路線にもっとも徹底的にしかも論理的に反対したのが幸徳秋水であった。 秋水は究極のアナキストつまりアナーキズムの信奉者である。アナーキズムとは、「《「アナキズム」とも》一切の政治的、社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立を望む考え方。プルードンやバクーニンなどがその代表的な思想家。無政府主義。アナ」(『デジタル大辞泉』)である。 では、ピエール・ジョセフ・プルードンとは何者かと言えば、「[1809~1865]フランスの社会主義者。民主的な経済制度や相互連帯に基づく自由で平等な社会の実現を主張。経済的自由主義・共産主義・国家を否定した。著『財産とは何か』『貧困の哲学』など」(前掲同書)であり、ミカエル・アレクサンドロビッチ・バクーニンは、「[1814~1876]ロシアの革命家。無政府主義者。1840年代、ヨーロッパ各地の革命に参加したが捕らえられ、シベリアに流刑。1861年、脱走して日本・アメリカを経て、ロンドンに亡命。第一インターナショナルに参加したが、マルクスと対立して除名された。著『国家制度とアナーキー』『神と国家』など」(前掲同書)である。 注意すべきは、バクーニンはカール・マルクスと対立しているということである。これは当然で、共産主義も労働者の政府という国家は否定しない。だからこそプルードンも共産主義に反対だったのである。『無政府共産』という著作もあるがゆえに、日本人のなかには混同している向きもあるが、かつてのソビエト連邦あるいは現在の中華人民共和国のように「プロレタリア独裁」を基本原理に政府の存立を認めるという点で、両者はまったく違うものなのである。 アナキストは国家を否定するのだから、その国家が強大化し他国を植民地化する帝国主義は認められないし、その手段としての戦争も絶対に拒否することになる。一切の権威を認めないという点で、アナキストと共産主義者には無神論者という共通点が生まれるのだが、反戦という共通目的があればアナキストはキリスト教徒とも共闘できる。アナキスト幸徳秋水とキリスト者内村鑑三の深い交わりはそこから生まれた。 そもそも明治を代表する文人ジャーナリストの一人、黒岩涙香(周六)によって創刊された新聞『萬朝報』が二人の出会いの場であった。「簡単、明瞭 、痛快」という黒岩の編集方針に賛同した内村、幸徳、それにのちに共産主義に転じた堺利彦とともに、彼らは花形記者として活躍した。ところが、日露戦争が避けられなくなると最初は反戦論を唱えていた黒岩主筆が世論の動向に抗しきれず開戦論に転じたため、内村は単独で、幸徳・堺は連名で「われわれは社会主義の見地から戦争を貴族、軍人等の私闘であり大多数の国民の犠牲によって成り立つものと紙上で伝えてきたが、社の方針の転換によって沈黙せざるを得なくなった。 しかし、このまま沈黙するのは志士の社会に対する責任に欠けることになるので、やむを得ず退社する」という「退社の辞」を叩きつけた。そして幸徳・堺は新たに『平民新聞』を創刊した。この新聞では、徹底的に日露戦争開戦反対の論陣を張った。挙国一致で日露戦争という国難を乗り越えようとしている桂から見れば、それは国家に対する裏切り行為と見えただろう。 幸徳は、世界思想の潮流のなかで自分の立ち位置がよく見えていた。その証拠に、『萬朝報』在社中の一九〇一年(明治34)に三十歳の若さで最初の著作『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行している。もっともその序文で幸徳は、これは著作というより著述、つまりオリジナルでは無く先人の思想を紹介するものだと述べているが、これは謙遜というものだろう。この著作は、世界レベルで見てもきわめて早い帝国主義の優秀な分析だという評価がある。実際、あまりにも有名なロシアのレーニンの『帝国主義論』(原題『資本主義の最高段階としての帝国主義』)が書かれたのは一九一七年(大正6)で、幸徳のほうが十六年も早い。 ところで、桂―タフト協定を覚えておられるだろうか? 日露戦争真っ最中の一九〇五年(明治38)七月、日本の桂太郎首相と米国大統領特使ウィリアム・タフト陸軍長官との間で合意した秘密協定だ。その内容は、日本はフィリピン独立運動に対する支援を一切やめる代わりに、アメリカは大韓帝国に対する日本の優先権を認めるというもので、アメリカのフィリピン併合、そして日本の韓国併合への道を開いたものである。いわば帝国主義の仲間同士が縄張りを決めたということで、日本の帝国主義路線参入を決定的にした秘密協定だが、こうしたアメリカのフィリピンに対する態度に対し真っ向から異を唱えたのも幸徳なのである。(第1340回につづく)※週刊ポスト2022年5月6・13日号
2022.05.04 16:00
週刊ポスト
(宮内庁提供)
上皇ご夫妻がお住まいになる仙洞御所 思い出が詰まった場所の笑顔あふれる物語
 平成から令和への御代がわりに合わせて、お住まいの“入れ替わり”が進められていた天皇ご一家と上皇ご夫妻。引っ越し作業も終わり、天皇ご一家は皇居の「御所」に、上皇ご夫妻は赤坂御用地の「仙洞御所」にお住まいになる。 上皇陛下の皇太子時代に「東宮御所(皇太子のお住まい)」として誕生したこの建物は、平成の御代がわりに伴い「赤坂御所」と呼び名を変えた。そして、いまの天皇陛下が皇太子時代に住まわれるとまた東宮御所に、そして令和の御代がわりに伴い赤坂御所と改称された。 仙洞御所は「退位した天皇(上皇)の御所」という意味を持つ。上皇ご夫妻は、皇太子ご夫妻としてお子さま方と暮らした “思い出の地”に、今度は上皇ご夫妻としてお戻りになるのだ。元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんが言う。「昭和時代、上皇上皇后両陛下は、お住まいで音楽会を開いたり、テニスや卓球をされたりと、家庭的な暮らしを大事にされていました。お子さま方をお育てになった場所ですし、思い出がたくさんおありでしょうから、転居を楽しみにされていたでしょうね」 ご家族の教育の場にも、団らんの場にもなった仙洞御所。その誕生から今日までを写真でプレーバックする。●1960年 天皇陛下ご誕生 写真はご誕生から4か月が経過した頃。生後120日前後で行われ、一般の「お食初め」にあたる「お箸初」を前に美智子さまの腕に抱かれ、笑顔を浮かべられている。●1960年 新東宮御所完成 現在の上皇ご夫妻のお住まいとして建設され、おふたりの寝室、書斎、食堂、美智子さま用のキッチンのほか、子供部屋も2室用意されていた。●1960年 昭和天皇新東宮御所ご訪問 昭和天皇と香淳皇后が新東宮御所を訪れた。玄関前で撮影されたこの写真は、皇室3世代が一堂に会された瞬間となった。●1961年 キッチンに立つ美智子さま 当時27才の美智子さまは、ご自身で料理の腕を振るわれた。並んだ食材にエプロン姿の立ち振る舞いはまさに“日本の主婦”の鑑のよう。●1964年 天皇陛下4才のお誕生日 お誕生日を迎えるにあたって撮影され、和やかな雰囲気が伝わってくる。上皇陛下と天皇陛下が腕相撲で力比べされている姿を見守る美智子さまの表情がなんとも幸せそう。●1966年 お庭で綱引き 天皇陛下6才のお誕生日の翌日に学習院幼稚園の友達80人を東宮御所に招待。庭で綱引きをみんなで行い、陛下も力一杯に綱を引かれていた。●1969年 黒田清子さん「お箸初」を迎える 2005年に黒田慶樹さんと結婚した黒田清子さんは、まだ生まれて数か月の頃。ごきげんな様子の秋篠宮さまとともに乳母車に乗ってすやすやと眠っている。●1970年 上皇陛下37才のお誕生日 和室でカルタ大会に向けてご一家で熱心に練習中。正座で我先にとカルタを取り合う姿はまさに真剣そのもの。●1973年 天皇陛下13才のお誕生日 テニスコートで練習をされる天皇陛下と上皇陛下。上皇陛下は練習が終わった後も熱心にアドバイスをされていた。●1973年 黒田清子さん4才に お庭で満開の桜の下で、美智子さまと一緒にままごとをする清子さん。人形をベッドに寝かせ、ピアノを弾いたりと楽しそうなご様子。●1982年 ご夫妻でテニス かつて、“テニスコートの恋”といわれたおふたりの出会いのきっかけでもあるテニス。48才になられたばかりの美智子さまは上皇陛下と一緒に汗を流された。●1984年 上皇ご夫妻銀婚式 ご結婚から25年が経ち、銀婚式を迎えられた上皇ご夫妻。写真は内宴に合わせて、お庭で撮られた一枚。左は、昭和天皇ご夫妻。●1994年 天皇皇后両陛下が東宮御所へお引っ越し 東宮仮御所にお住まいだった天皇皇后両陛下が、同じ赤坂御用地内の東宮御所へお引っ越しされた。花に囲まれながら散歩される姿がとっても幸せそう。●2002年 天皇ご一家記念写真 天皇皇后両陛下に愛子さま、秋篠宮ご夫妻に、眞子さまと佳子さまが誕生された。天皇ご一家の記念写真の人数もずいぶんと賑やかになっている。●2002年 ご誕生から3か月の愛子さま 談話室での雅子さまと愛子さまのツーショット。体重3102gで誕生され、お祝いの記帳は誕生日と翌日で12万人にものぼった。●2003年  愛子さま1才 両陛下が愛子さまをはさんで談笑されている。愛子さまが、お庭に咲いている花々を指さし、興味津々のご様子。●2004年 お庭で遊ばれる愛子さま 運動神経抜群の両陛下の血を受け継ぎ、愛子さまも木登りに挑戦。支えられながらも木につかまるお姿からたくましさが感じられる。●2004年 愛子さま3才 3才の誕生日用に撮影され、手を上げながらニッコリと微笑まれている。この頃から雅子さまと外出される機会も増え、健やかに成長されていた。●2013年 天皇陛下スペインからご帰国 約400年前から日本との交流が続くスペインを訪問され、帰国された天皇陛下。雅子さまと愛子さまに出迎えられ、にこやかな表情を浮かべられている。●2013年 愛子さま12才のお誕生日 小学6年生になられた愛子さまは天皇陛下と歴史のお勉強。学校では放送委員をお務めになるなど充実の日々過ごされていた。●2015年 天皇皇后両陛下トンガから帰国 両陛下でトンガを訪れた後には、愛子さまの出迎えを受けられた。陛下はこれまで3度トンガを訪問されており、今年1月に海底火山が噴火し被害を受けた際には、お見舞いの電報を送られた。●2018年 銀婚式を迎えられた天皇皇后両陛下 愛犬・由莉を連れてお庭で談笑されている。銀婚式に公表された文書では夫婦円満の秘訣を「笑いを生活の中で忘れないこと」とつづられている。●2019年 祝賀御列の儀 天皇が広く国民に即位を披露し、祝福を受けられる「祝賀御列の儀」終え赤坂御所に到着された天皇皇后両陛下。陛下はえんび服、雅子さまはローブ・デコルテの正装で臨まれた。●2020年 ご進講 新型コロナウイルスが猛威をふるいはじめ、ご公務もオンラインが中心になられていた。専門家から説明を受けられる“ご進講”で学ばれる日々を送られていた。●2022年 新年用ご一家写真 昨年、愛子さまは成年皇族になられた。天皇陛下と同じ学習院大学で勉学に励まれる姿を、天皇皇后両陛下は頼もしく思われていることだろう。撮影/雑誌協会代表取材 写真/時事通信社、共同通信社、宮内庁提供※女性セブン2022年5月12・19日号
2022.05.01 16:00
女性セブン
作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)
【逆説の日本史】君臣の立場を超えた「主君と郎党」の関係にあった明治天皇と乃木希典
 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その5」をお届けする(第1338回)。 * * * 明治天皇は朱子学的名君だったと言うと、それでは中国皇帝と同じではないかとの誤解を招くかもしれない。もちろん同じでは無い。日本の天皇は日本古来の神道と朱子学の融合の上に立つ存在である。だから、朱子学だけしかない中国ではきわめて困難であった四民平等(士農工商の廃止)も、日本は明治維新とともに容易に実行することができたのである。 中国皇帝と日本天皇はまったく別のものなのだが、天皇に朱子学的要素は当然ながらある。そして明治天皇を名君にしたのは朱子学の最良の部分であり、それは元田永孚の進講や山岡鉄太郎ら侍従の献身によって天皇の骨となり肉となった。具体的に言えば、それは君主としての徳を積み、その徳義によって国家国民を導くということである。だから、文芸評論家の福田和也は著書で次のように述べている。〈乃木を愛されたのも、乃木が自らの徳義によって、帝国陸軍を支えるという決意をし、それを貫こうとしていたからにほかならない。明治天皇は、快活、剛毅なお人柄であったけれども、乃木が有徳な人物となるために、どれほど凄惨な努力を重ねてきたかを理解されていた。有能な人材よりも、有徳な人物の方が得難く、貴重だと考えた。〉(『乃木希典』文藝春秋刊) そのとおりだろう。明治天皇と乃木は、大日本帝国憲法の規定する君臣の立場を超えた「主君と郎党」であり、君主は徳義の人でなければいけないという共通の思いを持つ「同志」だ。だからこそ、皇孫(裕仁親王。のちの昭和天皇)の教育を任せられるのは乃木しかいない。大変残念なことに、ドナルド・キーンは乃木が学習院の院長に任命されたことを一種の左遷ととらえているようだが、実態は左遷どころか抜擢である。乃木しかいないのだ。 ひょっとしたら、なぜ教育の対象が当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)では無く、その嫡子である皇孫になったか不思議に思う向きもあるかもしれないが、それは簡単で嘉仁親王は病弱で明治天皇が山岡鉄太郎に受けた「教育」などは到底不可能だったからである。大正時代がたった十五年しかなかったのもそれが理由だ。 乃木は郎党としての失態、つまり田原坂における軍旗の紛失の責任を取っていずれは自決しようと考えていた。だが、明治天皇に皇孫の養育を頼まれた以上死ぬわけにはいかない。そこには当然、自分のほうが先に死ぬだろうからその時点までご奉公すればいいという考えもあっただろう。 ところが、自分より三歳年下の天皇のほうが先に亡くなってしまった。こうなれば、すぐに殉死するほかは無い。では、明治天皇から託された皇孫殿下の教育はどうすればいいだろうか。最後にこれだけは伝えておきたいということが乃木にはあった。乃木は殉死を決行する二日前、御所に参内した。正確に言えば、御所の一角に設けられた先帝の殯宮(遺体の安置所)には毎日しかも朝夕二回参拝していたのだが、その前日に明日は早朝皇孫殿下いやこの時点ではもう皇太子の迪宮裕仁親王に拝謁したいと申し入れていた。もちろんその願いは聞き届けられたのだが、乃木はそのとき自ら書写した山鹿素行の『中朝事実』を献上し、まだ十二歳の皇太子に難解な漢語を交えて小一時間その内容を解説した。皇太子は最後まで立ったままそれを聞いた。〈希典の講述はおわった。このとき皇儲の少年は、不審げに首をかしげた。「院長閣下は」 といった。かれは乃木とよばずこのような敬称をつけてよぶようにその祖父の帝の指示で教えられていた。「あなたは、どこかへ、行ってしまうのか」 少年はそう質問せざるをえないほど、希典の様子に異様なものを感じたのであろう。(中略)「いいえ」 と、それをあわてて否定した希典の声も、廊下まで洩れた。〉(『殉死』司馬遼太郎著 文藝春秋刊) この作品は一応「小説」だが、実録に基づいている。二人のやり取りが「廊下まで洩れ」ていたからだ。この後、乃木は殉死の意図を隠し退出したが、遺言代わりに皇太子に渡した『中朝事実』とはいかなる書物か? この『逆説の日本史』シリーズの古くからの読者には説明する必要があるまい。いまから十年以上前の話だが、『逆説の日本史 第十六巻 江戸名君編』に私は次のように書いた。〈中国の君主つまり皇帝こそ世界唯一の至高の存在である。この後に日本人はこれに反撥して「日本こそ中国(=世界で一番優れた国)だ」と主張するようになり、たとえば山鹿素行は『中朝事実』などという本を書くようになった。「中朝」とは「中国」のことであり、直訳すれば「中国の歴史」ということだ。しかし、素行がこの中で「中国」と呼んでいるのは、実は日本のことなのである。〉 なぜ日本は中国なのか。そのことも愛読者にはおわかりだろうが、念のために繰り返すと中国においては王朝交代つまり新しい皇帝の就任を、実際には「ケンカに強いやつ」が勝っただけなのに「天命による易姓革命だ」などとごまかす。 しかし、日本の天皇は違う。日本は神の子孫である天皇が、その神徳をもって断絶すること無く神代の昔からこの国を治めている。つまり、中国の皇帝はすべて朱子学の言う覇者(武力と陰謀で天下を取った偽の君主)だが、日本の天皇はすべて王者(徳をもって世の中を治める真の君主)だ。だからこそ日本のほうが本当の中国なのだ、という考え方である。いまも残る「妻返しの松」 司馬遼太郎の「乃木愚将論」については『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも詳しく述べたとおり、まったく賛成できない。しかし、皮肉なことだが乃木の内面や人間像についてはその分析は見事である。たとえば、いまひとつわかりにくい主君と郎党の関係について司馬は前出の『殉死』で次のように述べている。〈郎党であるということは、どういうことなのであろう。 一種の錯覚がなければならない。狂言における太郎冠者がそのあるじの大名に対するように、あるいは『義経記』の武蔵坊弁慶がその主人の義経に対するように、自分という自然人の、自然人としての主人が帝であるとおもわねばならなかった。(中略)かれが帝をおもうときはつねに帝と自分であり、そういう肉体的情景のなかでしか帝のことをおもえなかった。希典は、つねに帝の郎党として存在していた。〉 明治の文学者たちは、すべてが乃木希典の殉死をこのような視点でとらえたわけでは無い。すでに紹介したように森鴎外はこれに肯定的だったが、新しい世代の代表ともいうべき芥川龍之介は短編小説『将軍』にあきらかに乃木をモデルにしたN将軍を登場させ、「モノマニアックな眼」をした「殺戮を喜ぶ」人間として描いた。 さらに興味深いのは、この作品が発表された一九二一年(大正10)の時点では、ある意味で乃木の軍人としての優秀さを証明したとも言えるヴェルダン要塞攻防戦はすでに終わっているのにもかかわらず、芥川はむしろ多くの兵士を無駄死にさせた無能な将軍として乃木を描いているのである。ちなみにこの作品は当時の検閲に引っかかり、かなりの部分で伏せ字が見られる。原稿は失われてしまったので再現することはできないが、それがあれば芥川の乃木批判の姿勢がより明確になっただろう。 夏目漱石は、少なくとも批判的では無い。その代表作『こゝろ』では最後の最後で主人公が自殺をするのだが、その主人公が乃木に対して共感する部分がある。それは、主人公が新聞で乃木の自殺の理由が若いころの軍旗紛失にあると知ったことに続く描写である。〈乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえてきた年月を勘定して見ました。西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年までには三十五年の距離があります。乃木さんはこの三十五年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだろうと考えました。〉(『こころ』新潮社刊) この後、主人公は長年抱えていた心の悩みを清算するために自殺する。乃木の殉死を漱石がまったく評価していないのなら、こういう文章にはならないだろう。 ところで、乃木希典の生涯については肯定的な人も否定的な人もいるわけだが、肯定的な人々の間にあっても唯一批判的なのが、静子夫人に対する態度である。そもそも乃木は結婚するつもりは無かった。明治十年の少佐時代から内心いずれ自決すると決めていたからである。しかし、周囲は独身の少佐を放ってはおかない。また当時は優秀な男児を儲け、家を保ち、国家に尽くすのが国民そして軍人としての道だという考え方もあったので、乃木は周囲から執拗に結婚を勧められ何度も断っていたが、とうとう面倒くさくなったのか「薩摩の娘ならよい」と答えてしまった。 言うまでも無く、乃木は長州出身である。その乃木がなぜ「薩摩の娘」と言ったかと言えば、陸軍部内における長州閥と薩摩閥の対立抗争に嫌気がさしていたからである。どこでもそうだが、「閥」というグループは同じグループ内での婚姻で結束が固まることが少なくない。平たく言えば、長州出身の軍人は長州から嫁をもらうのがあたり前だということだ。乃木はこうした傾向を苦々しく思っていた。そこで長州出身の自分が率先して薩摩の娘をめとれば、派閥抗争に歯止めがかかると考えたのである。 たしかに考え方は「立派」かもしれないが、これでは妻は「産む機械」にされてしまう。実際そうなった。しかし周囲は、「乃木もとうとう身を固める気になったか」と大喜びして嫁の世話をした。 乃木夫人となった女性は、元の名を湯地七(シチ)といった。七人兄弟の末っ子として生まれたからである。生家は薩摩藩の藩医の家柄である。長兄は定基といい、勝海舟の愛弟子だった。その縁でアメリカ留学し帰国後は新政府に出仕した兄に呼び寄せられ、彼女は東京で女学校を卒業した。そして日露戦争において乃木司令官の参謀長だった薩摩出身の伊地知幸介(あの水師営の会見の写真にもステッセルと一緒に写っている)の強い勧めによって乃木に嫁いだ。 乃木はお七という名前は八百屋お七を連想させてよろしくないと、自分の号「静堂」から一字をとって「静子」という名前を与えてくれたが、決して優しい夫では無かった。結婚式の日は外で散々酒を飲んだ挙句、招待客をおおいに待たせ泥酔状態で帰ってきた。子供は四人生まれたが二人は嬰児のときに夭折し、成人した長男と次男も日露戦争で戦死した。このとき、乃木がわざわざ危険な前線に二人を配置したのはすでに述べたとおりである。それに長男は軍人になることを好まず散々抵抗し静子もそれを支持したのだが、乃木は結局それを押し切って軍人の道を選ばせたという話も伝わっている。 また乃木が四国に置かれた第十一師団の師団長だったとき、官舎が整っておらず近隣の金倉寺(四国88ヶ所霊場、第76番札所。香川県善通寺市にある)を宿舎としていたが、そこにある年の大晦日、東京から静子夫人が面会にきた。どうやら子供のことで重大な相談があったらしいのだが、乃木はそのようなことで「戦場」に来るなと、雪のなか静子夫人を追い返してしまった。ちなみに、いまでもこの寺の境内には「乃木将軍妻返しの松」がある。 じつは乃木はドイツ留学までは毎日のように料亭に出入りして豪遊し泥酔していた。おそらくは心の重荷を紛らわせるためだろうが、ドイツから帰ってきた後は生活態度が一変した。まさに「妻返しの松」に象徴されるような謹厳実直な軍人になった。そして、寝るときも軍服を脱がないという「乃木式」を始めたのも帰国後である。妻としてはこの極端な変化もたまったものではなかっただろう。また姑の壽子も静子には決して優しく無く、儒教的な親孝行にこだわる乃木は姑から妻をかばおうという気持ちは微塵も無かった。たまりかねた静子は、幼い二児を連れて別居に踏み切ったこともあるくらいだ。 話を殉死の評価に戻そう。明治を代表する小説家徳冨健次郎(蘆花)は、この殉死の記事を読んだときの反応を次のように述べている。〈余は息を飲んで、眼を数行の記事に走らした。「尤だ、無理は無い、尤だ」 斯く呟きつゝ、余は新聞を顔に打掩うた。〉(『みみずのたはこと』岩波書店刊) これについて福田和也は、冒頭に紹介した著書で「明治という時代の、広さを感じざるをえない」と感嘆している。なぜなら、蘇峰こそ当時明治天皇の最大の批判者の一人だったからである。(文中敬称略。第1339回につづく)【プロフィール】井沢元彦(いざわ・もとひこ)/1954年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代に独自の世界を拓く。1980年に『猿丸幻視行』で江戸川乱歩賞を受賞。『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』など著書多数。※週刊ポスト2022年4月29日号
2022.04.21 16:00
週刊ポスト
上皇ご夫妻 葉山御用邸で人生初めての「ダイヤモンド富士」
上皇ご夫妻 葉山御用邸で人生初めての「ダイヤモンド富士」
 4月12日、上皇ご夫妻は「御代がわり」に伴う引っ越しのため、東京・港区の仙洞仮御所をあとにされた。4月下旬まで葉山御用邸(神奈川県)に滞在され、その間に、赤坂御用地にある旧赤坂御所への引っ越し作業が進められる。 2年余りの仮住まいは、コロナ禍で外出が制限され、ご夫妻は毎日朝と夕の2回、仮御所の庭を散策するだけの「おこもり生活」。木々が生い茂る仮御所の庭から、周囲のマンションのベランダに立つ住民とお手振りをされるなど、制限のある“国民との触れあい”が続いていた。 仮御所を出発される際、ご夫妻は身を乗り出すようにして、近隣住民や居合わせた保育園児らに「ありがとう。お元気で」と穏やかな表情で挨拶をされていた。 葉山御用邸に到着されると、御用邸前の「小磯の鼻」と呼ばれる小さな岬に立たれ、相模湾に浮かぶ富士山頂上に夕日が重なる美しい光景を眺められた。 上皇さま「ダイヤモンド富士は初めて見たね」 美智子さま「はい、本当に美しい景色ですね」 上皇さまは美智子さまのか細く華奢な手を優しく握られ、美智子さまは上皇さまの肩に頬を寄せられていた。 ご高齢になられても上皇さまと美智子さまの変わらないお姿を眺めつつ、ダイヤモンド富士の雄大な美しさは、ご夫妻のためにある瞬間だった。悠仁さまを和船に 上皇ご夫妻の葉山御用邸滞在は、2年ぶりのことだ。前回は皇居から仙洞仮御所への引っ越し作業時、葉山御用邸と那須御用邸(栃木県)の2か所に滞在された。 葉山御用邸へ到着する際、沿道にはご夫妻の姿を一目見ようとマスクをつけた地元住民たちが、隣同士の距離を保ち、横一列に並んで集まっていた。「上皇さまと美智子さまが葉山御用邸で静養されると知り、早くお会いしたくて3時間前から待っています」(隣町に住む女性) 正午過ぎ、白バイの先導で、ご夫妻を乗せたお車が到着した。歩くほどのスピードで、住民たちの前を通過する。コロナ禍で声掛けができないため、住民たちは手を振り笑顔でご夫妻を出迎えた。 それに対して、車の中では上皇さまが身を乗り出して手を振られ、花束を抱えられた美智子さまも、マスクはされているものの、柔らかな表情が窺えた。 御用邸とは、天皇陛下、上皇陛下、皇族方の一部が利用される“別荘”と言っていい。コロナ禍以前は年に数回、ご静養を兼ねて避暑や避寒のために訪れられた。 現在、御用邸は葉山、那須、そして須崎(静岡県)の3か所だ。 今回、ご夫妻が滞在される葉山御用邸は、相模湾に面した神奈川県三浦郡葉山町にある。幼少時代の大正天皇が、保養地とした場所でもある。また、かつて存在した葉山御用邸の附属邸で、大正天皇は崩御した。附属邸はその後取り壊され、跡地には「葉山しおさい公園」ができた。御用邸滞在中、天皇や皇族方は、公園にある四季折々の植物や花を散策しながら楽しまれることもある。 2008年、当時天皇皇后だった上皇ご夫妻が葉山御用邸に滞在された際は、秋篠宮ご一家もご一緒だった。 上皇さまと職員や漁師たちは、御用邸近くの艇庫から櫓が2つある「二挺艪(にちょうろ)」と呼ばれる和船を出された。 上皇さまと美智子さま、紀子さま、悠仁さまは黄色い救命胴衣を身につけると和船に乗りこまれた。上皇さま自らが櫓を握り、漕がれる。海面がキラキラと光る中、上皇さまは手慣れたご様子で漕ぐ和船はスイスイと沖へ向かっていく。時折、美智子さまも上皇さまから櫓の漕ぎ方を教わり、楽しそうにしている姿も見られた。 宮内庁関係者によると、上皇さまは、栃木県の奥日光に疎開中の小学校時代から和船に親しまれていたという。 同年10月30日のお誕生日に際しての文書回答で、美智子さまは悠仁さまらと和船に乗られた時のお気持ちを綴られていた。「(悠仁が)御用邸にもどって後、高揚した様子でいつにも増して活々と動いたり、声を出したりしており、その様子が可愛かったことを思いだします。」 また、天皇ご一家(当時は皇太子ご一家)と過ごされたこともあった。 まだ幼い愛子さまがよちよち歩きで波打ち際まで近づくと、ハッと気づかれた美智子さまが「愛子ちゃん、洋服が濡れちゃいますよ」と砂浜を駆け出され、愛子さまをぎゅっと力強く抱きしめられていた。美智子さま「ご出産はいつ?」 たくさんの思い出がつまった葉山御用邸に、上皇ご夫妻が到着した後、近隣住民の多くは「小磯の鼻」へと移動した。 普段であれば「小磯の鼻」を散策されることもあったが、コロナ禍ということもあり、付近にいた警察官も「密を避けるためにもご散策はないでしょう」と話していた。 ところが夕方5時30分過ぎ、小磯の鼻に面した御用邸の小さな扉が開き、ご夫妻が姿をお見せになった。茶系のブルゾン姿でシックな装いの上皇さまに対し、美智子さまは薄手のグレーのハーフコートを羽織られていた。 上皇さまは美智子さまの手をしっかりと握られ、会話されながら芝生の上を歩かれる。大型犬がちょこんと座っているのを見つけられると、美智子さまは身をかがめ、犬の顔をやさしく撫でられていた。 職員に先導される上皇さまと美智子さまが向かわれたのは、小磯の鼻の先端だった。相模湾の海景、江ノ島の彼方に富士山の姿があった。そこに、間もなく沈もうとする太陽が重なった。「ダイヤモンド富士」だ。 上皇さま「ダイヤモンド富士は初めて見たね。いまままでこんなことはなかったからね。実に素晴らしいね」 美智子さま「はい、私も初めて見ました。本当に美しい景色ですね」 ご夫妻は夕陽が沈むまでその場を離れることはなかった。その後、小磯の鼻の先端から御用邸にお戻りになる際には、短い時間ながら、地元住民との会話も楽しまれた。 子連れの母親が身重の体であるのを気づかれた美智子さまは「ご出産はいつ?」と尋ねられた。「1週間後です」という返答に美智子さまは「まあ、もうすぐね。どうぞお身体大切にね、ありがとう」と声をかけられた。 散策はおよそ1時間におよび、あたりはすでに薄暗い。職員がライトで足下を照らす中、ご夫妻は御用邸へと入られた。 上皇ご夫妻の葉山御用邸滞在は2週間の予定だ。戻られるのは、皇太子同妃時代にお住まいになっていた赤御用地内の旧赤坂御所。名称は「仙洞御所」となる。 4月10日が、63回目の結婚記念日だった上皇ご夫妻。結婚60年の「ダイヤモンド婚式」をすでに迎えられた上皇ご夫妻は、“新居”での生活を楽しみにされていることだろう。取材・文/皇室記者 祓川学
2022.04.19 07:00
NEWSポストセブン
演奏する
上皇ご夫妻、仙洞仮御所から転居へ 地元高校の吹奏楽部から「生演奏の引っ越し祝い」
 平成から令和への御代がわりにともなって、2020年3月から仙洞仮御所(東京・港区)に“仮住まい”されている上皇ご夫妻の引っ越しが迫っている。 ご夫妻は4月中旬に宮内庁が管理する施設に一時的に移られ、引っ越し作業が済み次第、赤坂御用地(東京・港区)内にある仙洞御所(旧・東宮御所)に移られる予定だ。皇太子時代を過ごされた思い出が詰まった邸宅でGWを迎える見通し。これをもって、御代がわりにともなう、天皇ご一家も含めた一連の引っ越し作業が完了する。 引っ越しを控えた4月2日、仙洞仮御所周辺では、満開の桜と晴天のもと「高松桜まつり」が開かれた。コロナ渦の影響もあり2年連続で中止されていたが、今年は規模を縮小し開催。目玉は、地元にある東海大学付属高輪台高校の吹奏楽部による演奏だった。沿道には多くの人が集まり、生徒たちが奏でる調和のとれた演奏に聞き入った。「吹奏楽部は全国大会に何回も出場したことのある実力校です。50人以上の部員が2つのグループに分かれ、周辺の大通りを演奏しながら行進。仙洞仮御所のすぐ横の遊歩道でも演奏しました」(同校関係者) 演奏は14時ぴったりにスタート。校旗を掲げた3人の生徒を先頭に、ドラムメジャーの指揮に合わせ、赤いトップスと黒いパンツのおそろいのユニフォームに身を包んだ生徒たちは、『YMCA』などを演奏しながら足並みを揃えて進んだ。 仙洞仮御所の塀に面した場所まで来ると、演奏を一旦ストップし生徒たちは整列。仙洞仮御所のほうを向き、校旗を塀の内側にも見えるように高く上げ、吹奏楽の代表的なマーチ『アルセナール』を演奏した。 桜まつりの関係者が明かす。「実は、桜まつり開催にあたって町内会から、“お騒がせするかもしれません”と宮内庁側にお話ししていたんです。すると、“きっと上皇ご夫妻は演奏をお聴きになると思います”ということでした。 敷地内にいらっしゃるご夫妻に少しでも大きく、いい音を届けようと、生徒さんたちは懸命に演奏しました。上皇ご夫妻が聞いてくださったことは、生徒さんたちの大きな励みになったと思います」 直接の交流が難しいコロナ禍での、未来ある若者からの引っ越し直前の生演奏のプレゼント。上皇ご夫妻は高校生のパワフルな演奏に、仙洞仮御所の敷地から大きな拍手を送られたことだろう。
2022.04.07 16:00
NEWSポストセブン
作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)
【逆説の日本史】没後各国で賞賛された明治大帝は紛うこと無き「名君」だった
 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立III」、「国際連盟への道 その2」をお届けする(第1335回)。 * * * 明治天皇の「医者嫌い」は、単なる医者嫌いというより西洋医学嫌いだったと見るべきだろう。その理由については『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編 日露戦争と日比谷焼打の謎』の第四章「軍医森林太郎の功罪」で述べておいたが、要するに天皇は明治を通じて不治の病であり西洋医学では治療法すらわからなかった国民病「脚気」を、漢方医のアドバイスで克服したからだ。「明治天皇が西洋医学から距離を置き、漢方を見直したのはこの時からだろう」と同書に私は書いたが、それは天皇にとって幸運でもあり不運でもあった。幸運というのは脚気を克服できたことであり、不運というのはその結果糖尿病などの治療においては漢方よりはるかに優れている西洋医学を信用しなくなったことである。天皇の症状はかなり深刻で、死の数年前には時々昏睡を起こすほどだったのだが、天皇は頑として西洋医学の治療を拒みワインを飲み続けた。きちんと治療や投薬を受けていれば、もう少し長生きできたのではないかと私は思う。 そういう頑固さ、あるいは剛直さと言い換えてもよいが、それはたしかに明治天皇の長所でもあった。ドナルド・キーンの『明治天皇を語る』(新潮社刊)によれば、たとえば御所の照明も電灯は好まず、可能な限り蝋燭を用いた。蝋燭には大きな欠点があって、立ち上る煤で天井や壁が汚れてしまう。臣下は困ってたびたび諫言したが、受け入れられなかったという。 また、日清戦争のとき広島に臨時大本営が置かれ天皇も現地にあった木造二階建ての家に数か月滞在したのだが、いまで言う2DK程度の部屋で昼は寝室のベッドを片付け執務室にして、食事もそこで取ったという。部屋があまりに殺風景なので臣下が絵など壁に掛けてよろしいでしょうかと進言したところ、天皇は「戦っている兵士たちにはそういうことができない」と断り、安楽イスや冬の暖炉の使用を勧めても拒否したという。また軍服が破れても継ぎを当て新品には取り替えず、靴の裏に穴があいた場合はそれを修理に出させたという。臣下は修理するより新しい靴を買ったほうが安いと言いそれは事実だったのだが、天皇は修理して使うということにこだわり続けた。 そんな天皇も、フランスの香水とダイヤモンドの指輪はお気に入りだったという。天皇は風呂嫌いでもあったので、平安貴族のように香水は体臭をカバーするために使ったのかもしれないが、なぜダイヤモンドの指輪が好きだったのか、それについてはまったくわからない。女性にプレゼントしたのかもしれないけれども、そういう記録は残っていない。 女性と言えば、明治天皇の時代は一夫多妻制であった。正式な皇后は一人だけでのちに昭憲皇太后(旧名一条美子)と呼ばれたが、彼女は一八四九年(嘉永2)生まれで公家の名門一条家の出身だった。天皇は一八五二年(嘉永5)の生まれだから、三歳年上ということになる。残念ながら体はあまり壮健ではなく、二人の間に子供はいない。 のちに明治天皇の後を継いで大正天皇となる明宮嘉仁親王を産んだのは側室(出産当時は権典侍)の柳原愛子で、柳原家も公家である。この時代あたりまでは生母が嫡妻(正室)でない場合でも子供は嫡妻の子として育てられ、生母はその世話係となるのが習慣だった。これは皇室だけで無く武家でもそうで、たとえば勝海舟の子女はずっと自分の世話をしてくれた女中が本当の母親であることを後に知らされ驚いた、という話が伝わっている。 ただし、こういう習慣は明治をもって終わった。というのは、民間では成功者が妾を持つことはむしろあたり前で、二〇二一年(令和3)のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一にも非嫡出の子供が多くいたのだが、明治天皇はなぜか皇太子に側室を認めなかったからである。これはかなり不思議なことで、自分は皇后との間に子がおらず皇位を継ぐ男子を産んだのは側室なのだから、天皇家の存続を第一に考えるならばその「運用」を考えるべきなのだが、天皇は頑としてそれを認めなかった。 ちなみに、天皇の子女の数は男子五人、女子十人の計十五人だが、その第一皇子と第一皇女を産んだ二人の側室(女官としては権典侍)の葉室光子と橋本夏子は産後の肥立ちが悪く、二人とも出産後間も無く亡くなっている。子供も二人とも死産であった。別に西洋医学を無視したわけでは無い。葉室光子の出産には楠本イネ、あのフォン・シーボルトの娘が女医として立ち会っていたのだが、それでも助けることができなかった。 また大正天皇を産んだ柳原愛子もその前に男女一人ずつ出産しているが、二人とも満二歳になる前に亡くなっている。このことを考えれば、明治天皇は家庭的には幸福だったとは言えないかもしれない。ただ、死産や夭折が続いたのは生母が公家育ちのひ弱な女性であったことも大きな原因だろう。そういうこともあって、天皇は息子の皇太子には側室を認めなかったのかもしれない。それよりも健康な女性と一夫一婦制を守ることが「旧来の陋習」を破ると先祖の霊に誓った五箇条の御誓文の精神に沿うもので、国のリーダーとして西洋近代化の手本を示さなければならないという考え方があったのかもしれない。明治天皇と言えば初めて洋服を着た天皇としても有名だが、昭憲皇太后も初めて洋服を着た皇后であった。 明治天皇がいわゆる名君であったということは間違いの無いところで、それは明治政府に批判的だった人間も評価する部分であった。明治を代表するジャーナリストであり歴史家でもある徳富蘇峰は、織田信長から始まる日本通史『近世日本国民史』の著者としても知られているが、この膨大な著作を書こうとしたそもそもの動機は、明治天皇の時代をほぼ同時代人(蘇峰は1863年〈文久3〉生まれ)として生きた蘇峰が、この明治天皇の時代をぜひ書き残しておきたいというものだった。 そのためにはそれに至る歴史を明確にしておく必要があるということで、蘇峰は『近世日本国民史』を完結させたのである。そしてその後、結果的に満年齢で九十四歳(1957年〈昭和32〉没)で天寿を全うするまでの間に、『明治天皇御宇史』全十四巻を完成した。稀代の歴史家徳富蘇峰をしてそうした行動に踏み切らせるほど、明治天皇の御宇(御代)は「魅力的」であったのだ。蘇峰の弟徳冨蘆花は小説家として有名だが、「陛下が崩御になれば年号も更わる。其れを知らぬではないが、余は明治と云ふ年号は永久につづくものであるかのように感じて居た」と述べている。「明治節」新設と陸軍の思惑 明治天皇を高く評価したのは、もちろん日本人だけでは無い。ドナルド・キーンは前出の『明治天皇を語る』で、天皇の没後世界各国で書かれた新聞の記事を集めて日本で出版された著作について言及し、「世界で最も偉い君主だった。私が読んだ限り、あらゆる国が天皇を一様にそう称賛しています」と述べ、その代表として二つの記事を引用している。一つはフランスの新聞『コレスポンダン』の記事で、それは次のようなものだ。〈「天皇は、場合によって大臣たちの政策を左右することがあった。なぜなら天皇の活動、天皇の知性は疑うべくもないものだったからである。しかし、天皇の主要な業績は国家の元首であること、また国民生活、国民感情の生きた象徴であることだった。天皇は、それを傑出した賢明さで果たしたのだった。(中略)偉大な王とは、例えばスペインのフェリペ二世のように国事を自ら操ろうと欲する者のことではない。優れた大臣たちに信頼を置き、王権の威光でこれを支援する者のことである」 もう一つの記事は「日本にあるものは中国にあるものを真似たにすぎない、日本に文化はない」と「伝統的に日本を軽蔑して」いた、中華民国の新聞の記事である。「一世の英雄にして、三つの島から成る国を世界の大国にまで引き上げた日本国天皇は、トンボのような形の国土、龍虎のような国運、五千万の大和民族を後に残して、あっという間に去ってしまわれた」〉 フランスの記事は明治天皇の日本史における業績および役割を見事にとらえたものだし、中華民国の記事はドナルド・キーンも指摘しているように中華思想に凝り固まり内心では日本をバカにしていた中国人ですら、明治天皇の偉大さは認めざるを得なかったことを示している。まさに大帝と呼ぶにふさわしい存在だろう。 昭和になってからの話だが、「明治天皇の遺徳をしのぶ」という目的で、天皇誕生日の十一月三日が「明治節」として国民の祝日になった。一九二七年(昭和2)一月二十五日に貴族院、衆議院両院がこれを決議し、同年三月三日の詔書で正式決定した。戦前つまり一九四五年(昭和20)以前の大日本帝国では、それまで祝日は新年節(1月1日)、新年宴会(新年の初めにその年を祝う宴会1月5日)、紀元節(建国記念日2月11日)、天長節(明治、大正、昭和各天皇の誕生日)の四日だけだったが、これに明治節が加わったということである。 注意すべきは、明治天皇の後を継いだ大正天皇は一九二六年(大正15)の十二月二十五日に崩御し直ちに改元されたので、昭和元年は一週間しかなかったことだ。だから、その次の年一九二七年はあっという間に昭和二年となった。つまり国民の感覚としては、大正天皇が崩御して新しい天皇(まだ昭和天皇とは呼ばれない)が即位してすぐ明治節が定められたという形になる。 このころ陸軍は満洲への攻勢を強めており、その明治天皇の「御稜威(御威光)」によって日露戦争に勝ち満洲への進出が可能になったという「歴史的事実」をもう一度国民に深く自覚させたい、という思いが政府や軍部にはあったのではないか。天長節は明治時代はたしかに十一月三日だったが、次の大正天皇が立つことによって「普通の日」になってしまった。天皇誕生日は現役の天皇の誕生日を祝うものだからである。 この明治節の新設で国民の祝日は五日あることになったが、なぜか新年節、紀元節、天長節、明治節だけが四大節として国民の間で広く祝われるようになった。ちなみに、祝日とは皇室から国民に至るまでお祝いする日であり、そこのところが皇室の祭典を行なう日である祭日との違いである。大正年間は祭日として明治天皇祭(先帝祭)があったが、これは誕生日では無く崩御の日を記念するものであった。 おわかりのように、これが昭和に入ると大正天皇祭になった。祭日は祝日と違って本来はどんちゃん騒ぎする休日では無い。だからこそ祭日なのだが、それもあってか昭和二十年以降は原則として祭日が無くなり、すべて祝日つまり国民全体でお祝いする日になった。その過程で明治節は「文化の日」になり、紀元節は一旦廃止されたが建国記念の日として現在は復活している。この日はあくまで神話の上の話だが、初代神武天皇が即位した日とされている。 そして翌一九二八年(昭和3)には、明治大帝讃歌とも言うべき唱歌『明治節』が作られ、当日には学校等で必ず歌われるようになった。歌詞は次のようなものである〈『明治節唱歌』堀沢周安作詞 杉江修一作曲一. 亜細亜の東 日出づる処 聖の君の現れまして 古き天地とざせる霧を 大御光に隈なくはらひ 教へあまねく道明らけく 治めたまへる御代尊二. 恵みの波は八洲に余り 御稜威の風は海原越えて 神の依させる御業を弘め 民の栄行く力を展し 外国々の史にも著く 留めたまへる御名畏三. 秋の空すみ菊の香高き 今日のよき日を皆ことほぎて 定めましける御憲を崇め 諭ましける詔勅を守り 代々木の森の代々長しへに 仰ぎまつらん大帝〉 ネット上で簡単に原曲を聴くことができるが、荘重なメロディーのなかなかの名曲である。そして明治天皇が大帝と讚えられた大きな理由の一つに、ある人物の死が挙げられることは言うまでもあるまい。その人物とは、陸軍大将乃木希典である。(文中敬称略。第1336回につづく)【プロフィール】井沢元彦(いざわ・もとひこ)/1954年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代に独自の世界を拓く。1980年に『猿丸幻視行』で江戸川乱歩賞を受賞。『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』など著書多数。※週刊ポスト2022年4月1日号
2022.03.25 16:00
週刊ポスト
愛子さまに高まる天皇待望論 懊悩する雅子さま「表舞台から隠す」への反転
愛子さまに高まる天皇待望論 懊悩する雅子さま「表舞台から隠す」への反転
 ご快復の途上ながら、雅子さまは「国母」のお役目を果たされようとしている。一方、「愛子さまの母」でもある。成人以降、過剰といえるほどに膨らむ愛子さまへの期待には雅子さまも戸惑わずにはおられまい。愛娘を守るために導き出された答え──。 はるか以前より、皇室と一般国民との間には、分厚い「菊のカーテン」が存在した。「敬愛と畏怖」という精神的な結びつきがありながら、決して交わることのない両者の関係性は、戦後、時代が進むにつれ大きく変化した。 特に、上皇ご夫妻が築かれた「平成流」は、美智子さまが民間から初の皇太子妃として皇室入りしたこととも相まって、「開かれた皇室」を象徴していた。カーテンは徐々に薄くなってきたのだ。 その姿勢は、令和の皇室にも受け継がれている。昨年12月24日、秋篠宮さまが「日本学生科学賞」の表彰式に臨席された。その際、オンラインで交流された中高生との会話が、音声つきでメディアに公開された。「式典での挨拶を除くと、皇族方と一般の人とのやりとりの音声が公開されるのは極めて異例です。2019年に雅子さまが秋田県を訪問された際、動物の保護施設で、犬に“みよちゃん、いきますよ”と声をかけられた様子が伝えられたときも、大きな反響がありました。会話には、感情や個性が表れやすく、皇族方のお人柄が伝わりやすい。“カーテン”で秘することだけが皇室を守るわけではありません。非常に画期的な試みです」(宮内庁関係者) いま、多くの国民が関心を寄せているのが、昨年12月1日に20才の誕生日を迎えられた愛子さまだ。「12月5日に行われた成年行事では、報道陣の前での立ち位置について、事前に両陛下に相談されるなど入念に準備されたといいます。国民からどう見られているかの重要性を充分理解されているからでしょう。その効果もあって、成年皇族となられた愛子さまの成年は祝福をもって広く受け止められました」(皇室ジャーナリスト) 年末に初の宮中祭祀を経験され、元日には成年皇族として最初の公務である「新年祝賀の儀」にも臨まれた。ところが一転、「講書始の儀」(1月14日)や「歌会始の儀」(18日)には、学業優先で試験期間中ということもあり、出席されなかったのだ。 しかし遡ってみると、愛子さまの前に成年皇族になられた秋篠宮家の次女・佳子さまは、成人して初めて迎えた新年、講書始の儀にも歌会始の儀にも出席されたことがある。学習院大学を中退され、国際基督教大学(ICU)への入学を目前に控えていた時期だった。愛子さまへの注目度が高まっていた矢先の“愛子さま不在”──「菊のカーテン」はなぜまた分厚くなったのか。そこには母である雅子さまの憂いが見え隠れするようだ。愛子さま人気は想像以上だった「歌会始の儀」の今年のお題は「窓」。天皇陛下は、コロナ禍にあえぐ世界が平穏を取り戻すことを願われ、雅子さまは、昨年お引っ越しされた御所の窓からご覧になった自然の豊かさを詠まれた。「雅子さまが御歌を披露されるとき、陛下が雅子さまに微笑みかけられていたのが印象的でした」(皇室記者) 愛子さまは、高校2年時にイギリスのイートン校へ短期留学した際の、心弾むお気持ちを込められた。《英国の 学び舎に立つ 時迎へ 開かれそむる 世界への窓》 長年皇室取材を続けている放送作家のつげのり子さんが話す。「愛子さまのお歌からは、希望に満ち、大空にジャンプするような屈託のなさを感じました。そればかりか、外交官として世界と交流し、国際親善の最前線に立たれていた雅子さまの役割を引き継がれたい、というお気持ちも込められているように感じられました」 学習院大学文学部2年の愛子さまは、日本文学を専攻されている。愛子さまが前述したようなお歌を詠むことができるのは、単なる勉強以上の深い教養をお持ちだからだろう。「愛子さまの達筆ぶりは有名なところです。小学6年生の頃には『藤原道長』をテーマにレポートを作成。結びは《道長の人生は本当に幸せだったのだろうか》でした。中学の卒業文集では戦争と平和について思いの丈を記されました。また、中学1年生のときには、《私は看護師の愛子》という冒頭で始まる、けがをした動物を相手に主人公が奮闘する物語を創作されています」(前出・皇室ジャーナリスト) 成人される前から、断片的にでも愛子さまのお姿やご活動が報じられるだけで、世間からは「やはり天皇家の第1子である愛子さまはすごい」と感嘆する声が聞こえていた。「宮内庁には、コロナ禍での公務減少と、それに伴って皇室の存在感が希薄になっていくことへの危機感が強くあります。なによりも、秋篠宮家の長女・眞子さんと小室圭さんの結婚騒動や、それを巡る秋篠宮家や宮内庁の対応の不首尾で、“皇室離れ”が起きている。愛子さま人気は、そうした逆境における一筋の光です。愛子さまにどんどん公務に出ていただき、皇室人気を回復するのがよい方策のように見えるでしょう。 しかし、愛子さまの人気ぶりは想像のはるか上を行った。あまりに愛子さまへの注目度と人気が集まってしまうと世論を二分する事態を招きかねない。『愛子天皇待望論』の熱が高まりすぎると、混乱につながる可能性があるからです。母である雅子さまは、そういった事態を危惧されているようなのです」(前出・宮内庁関係者)2つの家はまるでシーソーのよう 愛子さまへの期待が高まる一方、向かい風にさらされているのが秋篠宮家の長男・悠仁さまだ。悠仁さまは、お茶の水女子大学附属中学校の3年生。進学先としては、筑波大学附属高校(筑附高)が有力視されている。筑附高は、毎年30人前後を東大に送り込んでいる全国屈指の進学校だが、それよりも視線が注がれているのは、悠仁さまの“進学方法”だ。「筑附高へは、『提携校進学制度』を利用されることが濃厚とみられています。お茶の水大と筑波大の間で結ばれた制度で、双方の附属学校の生徒が進学を機に他方の学校へ入学できるというものですが、制定の経緯などを見るに“悠仁さまのために作られたのではないか”という指摘がある。一部には“皇室特権”だと批判の声もあります」(別の皇室ジャーナリスト) ただでさえ眞子さんの結婚問題の余波で、秋篠宮家に冷たい視線が投げつけられているなかで、さらに厳しい意見もある。「悠仁さまは皇位継承順位第2位です。天皇陛下の次世代に限れば、皇位継承権をお持ちなのは悠仁さまのみ。当然悠仁さまには充分な“帝王教育”が施されるべきですが、“これまで次男として奔放に生きてこられた秋篠宮さまにできるのか”“秋篠宮家で育った悠仁さまが天皇の重責を担えるのか”と、将来を不安視する声まで広がっています」(前出・宮内庁関係者) 天皇家に生まれた一人娘と、筆頭宮家に生まれた男子。年齢も5つしか差がない同世代の愛子さまと悠仁さまが、折に触れ比較されるのは、避けられないことだ。「かつては、適応障害による雅子さまの療養のトンネルが続き、公務を満足に果たせない時期が延びると、秋篠宮家への期待感が高まった時期がありました。愛子さま誕生後は、2004年に小泉政権が、女性・女系天皇を容認する報告書を取りまとめたことで、視線が一気に愛子さまに集まった。 かと思えば、2006年に41年ぶりの皇族男子として悠仁さまが誕生し、またしても世間の興味は秋篠宮家に。2つの家は、まるでシーソーのように交互に期待と注目を浴び、そのたびに答えのない比較に晒されてきたのです」(前出・皇室ジャーナリスト) まさにいま、愛子さまと悠仁さまは「天皇」を巡ってそのような状況にある。愛子さまの存在感が増せば増すほど、「愛子天皇待望論」は盛り上がる。対して有識者会議は、悠仁さままでの皇位継承順位は「ゆるがせにしてはならない」と結論づけた。「『愛子天皇』派と『悠仁天皇』派で国論が二分されてしまうと、ただでさえ安定的ではない皇位継承が、ますます不安定になります。雅子さまも、そのような状況には“待った”をかけたいでしょう」(前出・宮内庁関係者)お相手次第では眞子さんのようになる 愛子さまのご様子が伝えられれば、存在感は自然と増す。「愛子さまからにじみ出るお人柄のよさと優秀さは、もはや隠すことはできません。講書始も歌会始もそうですが、ならばいっそ『愛子さまは隠す』という方針に反転するというのが雅子さまのお考えなのではないでしょうか」(前出・皇室記者) 国民から一心に期待を寄せられることの重圧は、なにより雅子さまご自身が経験されてきた。外務省時代からお妃候補としてメディアに注目され、結婚後も、雅子さまの一挙手一投足が国民の関心事となった。「お世継ぎへの期待はいつしかプレッシャーに変わりました。真面目な雅子さまはなんとか対応されようとしてきましたが、適応障害に苦しまれることになりました」(前出・皇室記者) いまなお、雅子さまは快復の途上にある。「雅子さまは、過度ともいえる注目に晒される経験をしています。その大変さを誰よりも強く理解されているからこそ、愛子さまを守らなければならないという懊悩もあるのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者) また、国民の皇族への思いはいとも簡単に変わる。眞子さんがいい例だ。「眞子さんは、上皇ご夫妻の初孫として生まれ、成年後はご公務にも大変真面目に取り組んだ。先細る皇室の期待の星でもありました」(前出・宮内庁関係者) しかし、そうした印象は結婚問題で一変。すべてを放り出してニューヨークに渡った。現在20才の愛子さまにも、いずれは結婚の話が出るかもしれない。「どれだけ愛子さまが素晴らしくても、お相手次第では眞子さんのようになるリスクがある。期待が過度であればあるほど、落差は大きくなると雅子さまは認識されています」(前出・宮内庁関係者) 愛子さまはご自身の将来が不透明な状況に置かれ続けている。「結婚したら一般人になる」のか、「いずれ天皇になる」のか—─2006年の悠仁さま誕生以降、その将来は宙に浮いている。「だからこそ両陛下は、どのような決定がされても人生を全うできるようにと愛子さまを育ててこられました。それでも母として、子供の将来が定かでないのは不安でしょう。雅子さまは、愛子さまには幸せになってほしいと願われています。 愛子さまが人前に出られることで将来に新たな混乱を招いてしまうならと、しばらくは“学業”を理由に愛子さまを表舞台から隠すことをお選びになったのではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者) 愛子さまの将来に続く窓は、いつ開かれるのだろうか。※女性セブン2022年2月10日号
2022.01.27 16:00
女性セブン
林真理子氏インタビュー 最新作は女性皇族の数奇な人生を描く『李王家の縁談』
林真理子氏インタビュー 最新作は女性皇族の数奇な人生を描く『李王家の縁談』
【著者インタビュー】林真理子さん/『李王家の縁談』/文藝春秋/1760円【本の内容】 文藝春秋連載時から話題を呼んだ作品の単行本化。梨本宮家に生まれ、朝鮮王朝の皇子に嫁いだものの戦後、王族の立場を剥奪され、「悲劇の王女」と語られることも多い方子妃の結婚は、母・伊都子妃が主導したものだった。その内幕を、伊都子妃の残した日記などをもとに赤裸々に描き出す。時代に翻弄されながらも強く生きた女性たちの姿に胸が熱くなること請け合い。きっかけは李垠の異母妹の徳恵と宗武志夫妻の写真 梨本伊都子(なしもといつこ)という女性がいた。 旧佐賀藩藩主の鍋島家に生まれ、梨本宮守正王に嫁ぐ。長女の方子(まさこ)は朝鮮王朝の王世子李垠(イウン)に嫁いだ。 侯爵である父が特命全権公使として駐在していたイタリアの都ローマで生まれ、「伊都子」と名づけられた娘は、結婚によって皇族になり、戦後は皇籍離脱により一般市民として生きた。数奇な運命をたどったひとりの女性の人生を、林さんは「縁談」をキーワードに描き出す。「30年ほど前に『ミカドの淑女』を書いて以来、皇族・華族関係の本が出ると、手に入れて読み込んできました。本棚の一角にはそのコーナーがあります。李王家に関心を持ったのは、李垠の異母妹の徳恵(トケ)と宗武志(そうたけゆき)夫妻の写真を見たのがきっかけで、一種異様な印象で、心に残っていました。徳恵の結婚も伊都子妃が世話をしたと知り、『縁談』というテーマでまとめられるかな、と思ったんですね。『李王家の縁談』というタイトルもすぐ浮かびました」 林さんに取材したのは東京・千代田区紀尾井町の文藝春秋本社。すぐそばにある赤坂プリンスホテルの旧館が、かつての李王家邸だ。 執筆には、伊都子の日記が役に立ったという。「少女のころから昭和51年に亡くなる直前まで、80年近く日記をつけているんです。誰が訪ねてきたとか、どういう収入があった、いくらお祝い金を渡したとか、事細かに記録しています。日記そのものは宮内庁が『保管する』と持っていって所在がわからなくなってしまったそうですが、小田部雄次先生(『梨本宮伊都子妃の日記』著者)が全部コピーを取っておられたんです」 貴重な史料が後世に残ってよかった。それにしても、なぜ伊都子妃は「記録魔」になったのだろう。「研究好きの鍋島家の血を引いて、頭も良く、時代が違えば女医さんになったんじゃないかという人なんですね。『最新の月経帯』を考案したりもしています。探求心が強く、何か起こればその原因を突き止めようとする。それから、皇族に嫁いだので、誰にも愚痴を言えなかったのでは。恨みつらみは書かれていませんが、日記に書くしかなかったところもあると思います」『李王家の縁談』の読みどころのひとつは、李垠と方子の結婚をめぐるいきさつだ。併合された朝鮮と、日本との関係を融和させるための政略結婚で、方子はその犠牲となったと見られ、戦後は「悲劇の王女」と呼ばれた。林さんは、「この結婚は、伊都子から持ちかけたものだった」と見る。「方子さんにふさわしい相手が当時の皇族男子にはいなかったので、朝鮮王族を相手に選んだんです。伊都子さんから頼まれた、と宮内省にいた人が戦後、講演で話しています。磯田道史先生からも、伊都子の日記にそう読める箇所があると指摘していただいて、私もなるほど、と思いました。 朝鮮滞在中に長男が命を落としたり、戦後もなかなか朝鮮に帰れなかったり、方子さんが大変な思いをされたことは事実です。方子さんも、満洲国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟に嫁いだ浩(ひろ)さん(嵯峨侯爵長女)も、政略結婚と見られた相手に嫁いで、逃げずに最後まで寄り添ったのはすごいなと思いますね」天皇陛下から「史料が大変でしょうね」と 伊都子と、大正天皇妃である貞明皇后とのあいだの緊張関係が描かれているのも面白い。「大正天皇が皇太子のときに、日光で静養中に、ダックスフントを方子の実家に押しつけて、何度も遊びに来たというのが日記に出てくるんですよね。しょうがないから紐をつけて散歩に出たら、皇太子が外で待ち構えている。おそらくひとめぼれで、伊都子さんは本当に綺麗だったし、お后の貞明さんとしたら、面白くはないですよね」 貞明皇后の、どこか伊都子を疎ましく思う気持ちが、もしかしたら弟宮の結婚相手を選ぶ際に影響していたかもしれず、のちのち伊都子はそれで翻弄されることにもなる。 方子の妹規子(のりこ)や、李垠の妹徳恵の縁談でも、伊都子の剛腕は発揮される。徳恵は精神を病んでいたが、貞明皇后の強い望みもあって、対馬の宗家を継いだ武志と結婚することになる。「伊都子さんのキャラクターってすごく面白くて、果敢にいろんなことに挑戦して、だめでも別の打開策を探してみる。見ていて胸がすくようなところがあります。お姫さまだから、身分が下の人間を人と思わないところがある一方で、(その後、朝鮮の人への差別意識が社会に広がった中でも)朝鮮の人だから、という差別意識は全然ないんですね。自分自身も精神を病んだ時期があったので、徳恵に対してもとても優しい」 飛行機が好きで、新しいもの好き。美男で知られた歌舞伎俳優市村羽左衛門が大のひいきと、ミーハーなところもあり、戦争中に「たまには歌舞伎もみとうございます」とこぼしたりする。 戦争が終わり、待ち望んだ平和が訪れるが、戦後は伊都子にとって暮らしやすい時代ではなかった。 伊都子の夫、梨本宮はA級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに拘置される。半年後に不起訴で釈放されるが、臣籍降下し、経済的にも財産の切り売りでしのぐことになった。 小説は、皇太子妃に正田美智子さんが内定したというニュースを見て、伊都子が衝撃を受ける場面で終わる。皇族にとっての縁談の重要性は、小室眞子さんの結婚で大揺れに揺れたいまの時代にもつながる、改めて考えさせられるテーマだ。 この小説の執筆中、林さんは即位の礼や饗応の儀、園遊会など、皇室行事に参加する機会が何度もあったそうだ。「行事の間じゅう、どなたも微動だにされないので、すごいと思いました。話し方に、かすかに京なまりが残っているのを感じましたね。天皇陛下からは、『いま何を書いているんですか』とご下問がありまして、『梨本伊都子さんのことを書いています』とお答えしたら、『史料が大変でしょうね』と仰ったんですよ」【プロフィール】林真理子(はやし・まりこ)/1954年山梨県生まれ。1982年、エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーに。1986年「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞、1995年『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞、1998年『みんなの秘密』で吉川英治文学賞を受賞。近著に『綴る女 評伝・宮尾登美子』『美女ステイホーム』『Go Toマリコ』『美女の魔界退治』『小説8050』などがある。取材・構成/佐久間文子※女性セブン2022年2月3日号
2022.01.25 16:00
女性セブン
漫画家・倉田真由美、国際政治学者・三浦瑠麗、漫画家・小林よしのり
皇室の未来を語る 小林よしのり氏「愛子さまが皇太子になればブームになる」
 眞子さんの結婚は、皇族数の減少、皇室の在り方など、さまざまな課題を残した。2022年は、否応なく皇室の未来についての決断を迫られる年となるだろう。この問題について小林よしのり(漫画家)、倉田真由美(漫画家)、三浦瑠麗(国際政治学者)の3氏が座談会を行った。【全3回の第3回】小林:おそらく佳子さまは結婚して皇籍を離脱するだろうけど、愛子さまは違うと思うんです。倉田:なぜですか?小林:誕生日の会見でも、人の役に立てる大人になりたいとおっしゃっているし、育てられ方が違う。三浦:秋篠宮家では女性皇族は結婚したら皇室を出るという前提で、子さんも佳子さまも結婚して民間人になっても困らないような教育を受けてきたわけですよね。お二人とも大学は学習院ではなく、ICU(国際基督教大学)を選んでいる。けれど愛子さまは違うと。倉田:確かに、愛子さまはもしかしたら女性天皇になるかもしれないから、そういう教育を受けてきた可能性はありますよね。小林:今の上皇さまは、次の天皇は愛子さまだというお考えだと、近い筋から聞いています。倉田:じゃあ、悠仁さまはどうするんですか。三浦:そうですよ。悠仁さまは眞子さん、佳子さまと同じ家庭で育ったとはいえ、将来、天皇になるから、全然違う教育をされているわけですよね。小林:いや、それは建前で、上皇、天皇と秋篠宮の三者会談においては、秋篠宮さまが即位を辞退した上で、次は愛子さまというお考えでまとまっているはずです。倉田:それは、あくまで小林さんの見立てでしょう。三浦:そもそも、皇族の人たちは自分たちで皇室典範を変えられないじゃないですか。小林:だから、そこを変えてほしいから、首相が替わるたびに宮内庁が要求して、そのたびに有識者会議を開いている。倉田:だけど、女性天皇のリアリティって、私はあまり感じないんだけど。小林:そんなことない。すでに愛子さま皇太子論、天皇論が湧き上がっていますよ。三浦:それは秋篠宮家への批判の裏返しという側面もありますよね。 そうした感情的な話とは切り離して、愛子さまが天皇に即位してもいいとする議論はあると思います。ただ、この論で私が唯一懸念するのは、あとから皇位継承順位を変えるのは、今まで将来の天皇を見据えて教育を受けてきた人の人生を歪めてしまわないかということです。悠仁さまが生まれる前に決めておくべきだった。小林:それはそうだけど、すでにそういう前提で教育をしているんです。倉田:確かに、愛子さまの場合は、弟が生まれる可能性があるわけですからね。でも、悠仁さまではなく、愛子さまが天皇になる可能性は、現状では薄くないですか。小林:ちょっと前の調査だけど、2020年4月25日に共同通信が発表した世論調査の結果では、女性天皇に賛成する人は85%で、女系天皇も79%が認めると答えている。男系維持にこだわる人は少数派なの。三浦:男系と女系の違いって、ここ何十年かで出てきた人工的な概念だと思うんですね。昔は皇室やその周辺には天皇の親戚ばかりで、みんなどこかで男系とつながっていたから、たまたま維持されてきただけで、そういうルールがあったわけではないと思いますが。小林:その通り。後付けで権威付けられているだけで、愛子さまが皇太子になったら、万歳三唱で愛子ブームになるよ。悠仁さまにつなぐと男系が続くから、奥さんになる人は大変だよ。三浦:絶対に男の子を産まなきゃいけないという圧を受け、雅子皇后と同じ目に遭うわけですから、しんどいですね。小林:それで女の子が生まれたら、みんながっかりするんだよ。そんな社会でいいのか? しかも天皇家の存続は悠仁さま一人にかかっていて、存続の危機がこの先もずっと続くんだよ。三浦:人の価値観というのは時代で変わります。次の天皇が即位するのは何十年か先ですから、今はまず女性宮家を作って、何十年後かの我々の価値観に期待するというのがいいように思います。(第1回、第2回はこちら)【プロフィール】小林よしのり(こばやし・よしのり)/1953年生まれ、福岡県出身。漫画家。近著に『ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論4』(扶桑社)、井上正康氏との共著『コロナとワクチンの全貌』(小学館新書)。倉田真由美(くらた・まゆみ)/1971年生まれ、福岡県出身。漫画家。一橋大学商学部卒。『だめんず・うぉ~か~』(扶桑社)でブレイク。他の著書に『もんぺ町ヨメトメうぉ~ず」(小学館)など。三浦瑠麗(みうら・るり)/1980年生まれ、神奈川県出身。国際政治学者。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。株式会社山猫総合研究所代表。近著に『日本の分断』(文春新書)。※週刊ポスト2022年1月14・21日号
2022.01.08 07:00
週刊ポスト
成年皇族となられたのは年が変わる少し前(写真/JMPA)
皇室の未来を担う愛子さまのご結婚相手 「男系男子」の候補者リスト
 愛子さまの晴れがましいご成人は、新年を迎えた令和皇室に華を添えた。一方、水面下では、細りゆく皇室の将来を救う希望の存在として、異例の「結婚計画」が動き出している。ご本人の意思はあるのかどうか、すでにお相手の具体的な名前まで挙がっている。 12月22日、安定的な皇位継承策などを議論する有識者会議が最終報告書をとりまとめ、3つの方策を示した。【1】内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する。【2】皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とする。【3】皇統に属する男系の男子を、法律で直接皇族とする(養子縁組を経ず皇族となる)。「皇統に属する男系の男子」は、具体的には戦後皇籍を離脱した、いわゆる「旧11宮家」などを指している。 報告では、まず【1】と【2】の方策を検討し、これら2案で充分な皇族数を確保できない場合に、【3】を検討するという方向性が示された。しかし、これらの方策では不充分だとする指摘もある。「たしかにそれらが実現すれば、しばらくは公務の担い手を増やすことはできるでしょう。ですが、それは時間稼ぎでしかありません。根本的な問題は、安定的な皇位継承です。議論すべき課題にもう少し踏み込んでもよかった」(皇室ジャーナリスト) 皇位継承資格を持つ皇族は秋篠宮さま、悠仁さま、上皇陛下の弟である常陸宮さまの3人だ。「報告は、悠仁さままでの即位の流れは不変であることを前提としました。ですが、悠仁さまの次の世代はまったくの不透明です。悠仁さまが男子に恵まれるかどうかは未知数なのですから」(皇室記者) 現に、天皇陛下のもとには男子は生まれなかった。それ以前に、悠仁さまが結婚されるかどうかもわからない。生涯独身を貫いた皇族は過去にも存在する。 秋篠宮さまが天皇に即位すると、悠仁さまのお立場は皇太子へと変わる。そうなると迎える相手は「皇太子妃」だ。かつて皇太子妃として皇室に嫁がれた上皇后美智子さまも、皇后雅子さまも、慣れない皇室のしきたりやお世継ぎのプレッシャーから体調を崩されたことがある。「将来の天皇の妻」という重責は、あまりにも大きい。「そうなれば、皇統は途絶えます。有識者会議は、悠仁さま以降の皇位継承の議論をするには『機が熟していない』という判断です。しかし、万が一のことは明日起こるかもしれない。そうなってからでは遅いのです」(前出・皇室ジャーナリスト)愛子さまは「天皇の母」に適任 皇統は「男系男子」が担っている。男系男子とは、天皇の血を父方から受け継いでいる男子のことを指す。父親が天皇である愛子さまは、「男系女子」だ。一方、愛子さまが仮に男子をお産みになった場合、その子は母方から天皇の血を引く「女系男子」だ。前出の最終報告書に戻る。【1】では、女性皇族が結婚後も皇室に残った場合、夫やその間に生まれた子供は民間人として扱われ、皇位継承資格も発生しない。夫も子供も男系男子ではないので当然だ。【2】は対象が男系男子ではあるものの、養子となった男性は皇位継承資格を持たないとされる。皇室で生まれ育ったわけではない人物に、いきなり皇位継承資格が発生することには世間の理解が得られないということなのだろう。 だが、この2つの方策を重ねて考えると、「本当の意味が隠されている」と話すのは宮内庁関係者だ。「提言の深謀は、『女性皇族が男系男子を“婿養子”にすること』だと考えられます。つまり【1】と【2】をハイブリッドさせた方策です。そして、見据えられているのは、その間に男子が生まれることです。 この男子は、皇統を継ぐことのできる『男系男子』ですから、“血”の問題はクリアできます。かつ、天皇家や宮家に生まれた母を持つことで、皇族としての“品位”も充分に身につけていることになり、その点でも国民の理解を得られるでしょう。この条件下なら、皇位継承資格を認めてもいいという意見が出てくるのは自然なことです。結論は、宮内庁、官邸の思惑を踏まえて導き出されたものでしょう」 秋篠宮さまが即位されれば“本家”、つまり天皇家は秋篠宮家に移る。「女性皇族と男系男子の結婚」と「男子の誕生」を前提に悠仁さまの次の皇位継承者を考えると、可能性があるのは佳子さまの子だ。「ただ、佳子さまは“皇室脱出”を叶えた姉・眞子さんの最大の理解者であり、応援者でした。佳子さまも“姉のように結婚をして自由になりたい”という思いは強くお持ちのようです」(別の宮内庁関係者) となると、視線は愛子さまに向かうことになる。「愛子さまは、いずれ天皇家になることが決まっていた皇太子の家に生まれました。皇太子時代からの陛下のなさりようや皇室の意義、天皇に求められる姿勢や考え方を、幼いうちから学んでこられた。将来の天皇の母として、これほど適した女性はいません」(前出・宮内庁関係者)旧宮家からヒアリング では、その相手となる男系男子の「候補者リスト」にはどんな人物が並ぶのだろう。皇室関係の著書が多い評論家の八幡和郎さんが解説する。「戦後に臣籍降下した11の旧宮家の中でも、東久邇家や賀陽家には、愛子さまと年齢の近い男系男子がいます。ほかにも、戦前に皇室を離れた皇族や、江戸時代に公家の養子となった皇族に由来する『皇別摂家』の子孫まで範囲を広げれば、男系男子の数は案外多いのです」 もちろん、男系男子だからという理由だけで候補者となるわけではないだろう。ある程度、現皇室とのかかわりを考慮すると、リストの輪郭がさらにシャープに見えてくる。「東久邇家は、昭和天皇の長女で上皇陛下の姉にあたる成子さんの嫁ぎ先です。親戚づきあいも続いており、2019年には、上皇ご夫妻が東久邇家の当主の見舞いにお忍びで行かれています」(前出・別の宮内庁関係者) また、賀陽家の賀陽正憲氏は、天皇陛下の学習院初等科時代のご学友で、かつては自身が黒田清子さん(紀宮さま)の結婚相手として名を挙げられたことがある。「正憲氏には20代半ばの男系男子の子息が2人いるとされています」(前出・八幡さん) 2人とも学習院の出身だという。旧宮家以外では、皇別摂家の1つ、近衛家が注目される。「昭和時代に首相を経験した近衛文麿の本家はすでに男系の血筋が途絶えていますが、文麿の異母弟でオーケストラ指揮者の秀麿の家系には男系男子が残っているとされています」(前出・八幡さん) 近衛家は代々学習院の出身で、文麿の父・篤麿は学習院院長を務めた人物でもある。『女性セブン』は今回、こうした男系男子を擁する家系に取材を試みた。だが、みな一様にコメントを避けた。過去には饒舌にメディア取材に応じていた人でさえ、頑なに口を閉ざしている。「旧宮家の男系男子の皇籍復帰はかねてより何度も話題になりましたが、どこか机上の空論のような雰囲気があった。状況が一変したのは、2014年の第三次安倍内閣以降です。万世一系に固執する安倍官邸は、本腰を入れて彼らから直接ヒアリングを行ったそうです。皇籍復帰が現実味を帯びた状況では、取材に応えることも難しくなってしまったのではないでしょうか。 重ねて、眞子さんのお相手である小室圭さんの金銭トラブルがあれほど取りざたされた状況では、口を開きづらくなるのも無理はないでしょうね……」(前出・皇室記者) もちろん、外野がどれほどお膳立てを目論んでも、最後は愛子さまの意思が尊重されなければならない。新しい年を迎えた令和皇室の進む先を明るいものにするためにも、より深い議論が求められている。※女性セブン2022年1月20・27日号
2022.01.06 07:00
女性セブン
豊かな海づくり大会
天皇陛下と皇后雅子さま 「豊穣なる海への挑戦」40年秘話
 海を守り、育てることは、私たちの生活を豊かにすることにつながる。上皇陛下が皇太子時代から大切にされてきた「全国豊かな海づくり大会」は、昭和から平成、そして令和へと時代が移り変わっても、天皇家の重要な“責務”として受け継がれている。「おじいちゃんが守り、つなげてくれた海を、わたしがつなぐ番」 作文コンクール小学校低学年の部で大会会長賞を受賞した小学4年生の大森心結さんが、自作の作文を力強く読み上げる。会場の大型モニターに映し出された天皇皇后両陛下は、目を細められ、胸元で拍手を送られた。 10月3日、宮城県石巻市で開催された「第40回全国豊かな海づくり大会」。新型コロナの影響で2年ぶりの開催となった。関東地方をかすめた台風16号の影響が心配されたが、石巻には青い空が広がり、さわやかな秋風が吹いた。 大会は、式典で幕を開けた。地元宮城県出身の女優・鈴木京香がナビゲーターを務め、宮城県沖に広がる美しい海と、そこで操業する漁船の漁法や養殖の様子を紹介した。途中、東日本大震災の映像が流れると、観客席から嗚咽が漏れ、ハンカチで目頭を押さえる人の姿もあった。 両陛下は、コロナの情勢を鑑みてオンラインでのご臨席となった。午前11時過ぎ、水色のネクタイに濃紺のスーツ姿の天皇陛下と、鮮やかなブルーの装いの雅子さまが、皇居・御所の応接室に入室されるご様子が式典会場の大型モニターに映し出された。 東日本大震災の犠牲者に1分間の黙祷を捧げ、大会旗入場や国歌静聴などを経て、陛下がおことばを述べられた。《四方を海に囲まれた我が国は、古くから豊かな海の恵みを享受してきました。また、山や森から河川や湖を経て海へ至る自然環境と、そこに育まれる生命や文化は、私たちに様々な恩恵をもたらしてくれます》 5分間にわたって豊穣な海のかけがえのなさを述べられ、その海を守る漁業関係者の努力をねぎらわれた陛下。 そのおことばからは、40年続く「全国豊かな海づくり大会」にかける真摯な思いがうかがわれた。 全国豊かな海づくり大会は、全国植樹祭、国民体育大会、国民文化祭とともに「四大行幸啓」と称され、両陛下が大切にされる主要な地方のご公務とされる。 開催県とともに大会を共催する全漁連(豊かな海づくり大会推進委員会)の大森敏弘代表理事専務が語る。「食卓に安全でおいしい水産食料をお届けするために、水産資源の保護・管理をして、海や湖沼・河川の環境保全の大切さを広く国民に理解いただくとともに、『つくり育てる漁業』の推進を通じて漁業の振興と発展を図ることが大会の目的です。 1981年に大分県で第1回大会が開催され、以降、延期となった昨年を除き、毎年実施されてきました」 天皇家と大会のかかわりは、1950年代に遡る。当時は、戦後の経済発展とともに海浜の埋め立てや開発が進み、有害物質や汚染排水で漁場が荒廃していた。さらに、国内需要の急増で乱獲が生じ、水産資源の悪化が進んでいた。 この状況を解消すべく、1950年代半ばから、水産資源保護の重要性を訴えるため、「放魚祭」という行事が開催されてきた。その第2回に、当時皇太子であられた上皇陛下がご臨席されていた。これが、豊かな海づくり大会の前身となる。「1980年、当時の全漁連会長が東宮御所にお伺いする機会があり、両殿下に『かつての放魚祭を充実させ、皇室のご理解のもと国民的行事として毎年開催し、豊かな海づくりを世論に訴えて参りたい』とお話を申し上げたところ、ご理解をいただくことができたそうです。 その後、宮内庁や水産庁などが協議して、全国規模で毎年開催される『全国豊かな海づくり大会』に両殿下のご臨席を承る方向が示されました。つまり、この大会は、上皇上皇后両陛下のご理解から始まったのです」(大森専務)早朝から胴長姿でハゼを捕獲された 御用邸のある神奈川・葉山や静岡・沼津の海で、幼少期から魚に親しまれた上皇陛下は、魚類研究をライフワークにされ、退位後も皇居内の生物学研究所で研究を続けられている。特にご専門のハゼの分類では世界的な権威であり、今年6月にも新種のハゼ2種類を発見し、論文を発表された。 北海道のサロマ湖で開催された第5回大会(1985年)では、そのハゼをめぐるハプニングが起きた。「大会翌日の早朝に、殿下自ら胴長姿になられ、サロマ湖に生息するハゼを捕獲するために湖に入られたのです。研究のみならず資源の維持に対する思し召しを感じました。 天皇陛下になられるお方が胴長姿で湖に入られることには驚きましたが、大会を活用していただいたことをうれしく思いました」(大森専務) よほど印象深くあられたのか、翌1986年の歌会始で、美智子さまはこうお歌を詠まれた。《砂州越えてオホーツクの海望みたり佐呂間の水に稚魚を放ちて》 広島県で開催された第9回大会(1989年)は、「陛下が海づくり大会に継続してご臨席されるのか注目されていた」(皇室記者)という。「昭和から平成へと元号が変わり、上皇陛下は皇太子さまから天皇になられた。お立場が変わられたことで、皇太子さまに引き継がれるのではないかという見方もありました」(前出・皇室記者) 大森専務が当時を振り返る。「当時の全漁連会長が侍従次長にお伺いを申し上げたところ、『そのことについては何も心配なさらないで結構です。海づくり大会はお上がご自身で持ちあがると仰せられております』とお話をいただいたそうです。会長は『感極まったことは忘れられない』と申しておりました」 琵琶湖を抱える滋賀県大津市で開催された第27回大会(2007年)では、上皇陛下の「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰りました」「いま、このような結果になったことに心を痛めています」というご発言が話題となった。 ブルーギルは、いまでこそ生態系を荒らす外来魚として知られているが、当時は食用魚として有望視されていた。「1960年、上皇陛下はシカゴ市長から贈られたブルーギルを日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈されました。上皇陛下が持ち帰った魚が繁殖を続けたのかは未確認ですが、外来魚に悩まされる漁師たちを心配され、“謝罪発言”をされた上皇陛下の誠実さは聴衆の心を打ちました」(皇室ジャーナリスト) 上皇ご夫妻は、御代がわり前の高知県で開催された第38回大会(2018年)まで大会にご臨席され、全国の漁業関係者を励まされた。アマモは海のゆりかご 漁業の振興と発展を図る海づくり大会にとって、ひとつの転機となったのが、香川県で開催された第24回大会(2004年)だった。 水産庁関係者が『都会の里海 東京湾 人・文化・生き物』の著者で海洋環境専門家の木村尚さんのもとを訪れた。「どのようなものを放流したらいいか、というご相談でした。私は、『稚魚を放流しても、魚が育って増えていくとは限らないので、アマモを育てて、魚が育つ環境を整えることが大切です』とお伝えし、海づくり大会で天皇陛下が子供らにアマモをお手渡しするアイディアを提案しました」(木村さん)「アマモ」は、水のきれいな浅い海の砂地に生える海草の一種だ。海中で花を咲かせて種子によって繁殖する。「アマモは太陽光を浴びて二酸化炭素を吸収し、酸素を放出します。同時に海底から窒素やリンなどの栄養も吸収し、海の環境を守る大切な役割を果たします。アマモが群落になっている場所(アマモ場)は、メバルやマダイなどさまざまな種類の稚魚が育つ絶好の場として知られ、『海のゆりかご』と呼ばれます。 しかし、埋め立てが進み、浅い海が減った現在は、アマモ場が姿を消しつつあり、大きな問題になっています」(木村さん) 豊かな水産資源を育てるには、「海のゆりかご」が必要―木村さんの提言は関係者に受け入れられ、天皇陛下が子供たちにアマモの苗を手渡されることとなった。 2011年、天皇陛下(当時)の葉山御用邸静養中に、木村さんはアマモについて両陛下と懇談する機会を得た。「私は頭が真っ白になってしまって陛下とどんな会話をしたのか覚えていませんが、上皇后さまが『陛下はアマモに関して真剣に取り組んでくださっています』と仰せられたことは覚えています。うれしかったですね」(木村さん)さかなクンは「ギョギョギョ!」 令和元年。秋田県で開催された第39回大会には、現在の天皇皇后両陛下が初めてご臨席された。 その際、天皇陛下はこんなおことばを述べられた。《私自身、以前に鳥海山に登った折に、鳥海山の雪解け水がブナ林を養い育て、伏流水となって山麓の田畑を潤し、やがて日本海に注いで良質なイワガキを育んでいると聞き、山と海、そして人間との大切なつながりを感じたことを思い出します。 このような豊かな海の環境を保全するとともに、水産資源を保護・管理し、海の恵みと美しさを次世代に引き継いでいくことは、私たちに課せられた大切な使命であると考えます》 大森専務は「このおことばを聞き、海づくり大会の意義を広く国民に深めていくことを改めて誓いました」と語る。「天皇陛下ご自身の過去のご経験を踏まえ、山から海に至る水を通じた自然の環境の重要性を問いかけていただきました。ご皇室の『豊かな海づくり』に対する深いお心を重く受け止めております」(大森専務) 天皇陛下は、積極的に、水問題に取り組まれてきた。「学習院大学の卒業論文のテーマは『中世の瀬戸内海の水運』で、留学先のオックスフォード大学でもテムズ川の水上交通を研究されました。 1987年に親善訪問したネパールで水くみ場に列をなす女性や子供を見られて、水不足が貧困や教育格差などに結びつくことを実感され、水により一層の問題意識を持たれたといいます」(前出・皇室ジャーナリスト) 令和元年の大会前日には、関係者を驚かせる出来事があった。 歓迎レセプションには、全漁連の魚食普及推進委員を務めるタレントのさかなクンも出席した。懇談後、退出される両陛下がさかなクンに近寄り、お声がけをされたという。「私もその場にいたので本当に驚きました。数年前に都内の大学でさかなクンが講演した際、愛子さまがご学友といらしており、懇談する機会があったようです。その際のことについて、雅子皇后は『ありがとうございました』と感謝のお言葉を述べられていました。 さかなクンは『ギョギョギョ!としました』と感想を話していましたが、喜びいっぱいの表情に、私たちもうれしくなりました」(大森専務) 今年の海づくり大会の午後には石巻漁港でホシガレイとヒラメの稚魚の放流行事が行われた。その後、小学生の児童4名が復興への感謝の気持ちと一緒に豊かな海になるよう願いを込め、誓いの言葉を述べると、天皇陛下がモニター越しに、児童たちにお声がけをされた。「皆さんの言葉から、一人ひとり海を大切に思う気持ちがよく伝わってきました。これからも海を守る気持ちと、そして豊かな海に育てる気持ちを持ち、豊かな海に育ててほしいと思います」 豊穣なる海への挑戦は続いていく。※女性セブン2021年10月21日号
2021.10.08 07:00
女性セブン
新侍従長に期待 天皇皇后両陛下と宮内庁との「溝」の解決なるか
新侍従長に期待 天皇皇后両陛下と宮内庁との「溝」の解決なるか
 4月3日、皇后雅子さまが宮中祭祀「神武天皇祭」を欠席された。皇室記者は言う。「雅子さまは、悩みに悩んでのご欠席だったことでしょう。近頃は自然な笑顔を見せられることが多く、“完全快復”といわれる雅子さまですが、実際はまだご快復の途上。コロナ禍で公務が激減し、リズムが作りにくいこともあるのでしょう。今回のご欠席は雅子さまのご体調にはまだ波があり、周囲の支えが必要である証左となりました」 そんな雅子さまにとって、心強いニュースがあった。4月1日付で、天皇皇后両陛下を支える側近トップの侍従長に、別所浩郎氏(68才)が着任した。別所氏の学生時代を知る人物が語る。「東大出身で成績優秀。それだけでなく、品がよくて高身長、甘いマスクの持ち主でもあります。明らかにモテたタイプですが、浮ついた印象はなく、穏やかで紳士的な人物です」 東大卒業後、1975年に外務省に入省。雅子さまにとっては、東大と外務省の先輩に当たる。2012年に駐韓大使、2016年には国連大使を歴任。外務省で40年以上勤めた後、2020年1月に宮内庁の侍従次長として、天皇ご一家を支える仕事に就いた。それから約1年半で侍従長への昇進となった。「別所氏は外務省時代に皇太子ご夫妻へのご進講役を務めたことがありますから、両陛下とは面識があったはず。旧知の別所氏が近くで支えることになり、雅子さまも安心されたのではないでしょうか」(宮内庁関係者) 侍従次長着任からわずか半年ほどの間に、その誠実さを表すこんなエピソードがある。「昨年の夏、宮内庁を担当する記者に向けた会見で『コロナ禍における皇室のあり方』について質問を受けたことがありました。すると別所氏は “皆さんのお知恵をお借りしたい”と、記者に向けて答えたのです。前例踏襲ばかりを重んじる宮内庁において、そうした柔軟な対応は珍しい。記者の質問に対して答えをごまかすようなところは一切なく、座右の銘である『信なくんば立たず』を地で行く人物といえるでしょう」(宮内庁関係者) 別所氏に寄せられる大きな期待。その背景には、これまで両陛下と宮内庁の間にあった“不協和音”があるという。支えるはずの存在が絶望に落とした 振り返ると、両陛下は皇太子同妃時代から、側近との「コミュニケーション不足」を指摘されてきた。「当時皇太子だった陛下は2004年、雅子さまに対する『人格否定』があったと述べられました。すると、皇太子ご夫妻を支える東宮職の長である東宮大夫は、ご夫妻との意思疎通について“そこまで理解できるまでになっていなかった”とコミュニケーション不足を認めました。その前任者も口癖は“オク(ご一家のプライベートを指す)のことはわかりません”でしたから、ご一家との間には少なからず距離感があったのでしょう」(皇室ジャーナリスト) 当時、両陛下にとって、身近に心を許せる存在がどれだけいたのだろうか。「それ以前は、何十年も務め上げ、皇族方が信頼できる側近もいたといいます。ですが、当時は数年単位での交代が珍しくなく、心おきなく相談できる相手の不在を招いていた。人格否定発言の前後には“皇太子さまと東宮職の間には溝があった”ともいわれました。そうした関係性が、雅子さまの体調に悪い影響を及ぼしているのではないかとまでいわれたのです」(前出・皇室ジャーナリスト) さらに、周囲の心無い発言が、雅子さまを追いつめていった。「皇室という慣れない環境に身を投じられ、ただでさえストレスフルな生活を強いられた雅子さまを、“お世継ぎ”のプレッシャーが襲いました。愛子さまを出産された後の2003年には当時の湯浅利夫宮内庁長官が、『皇室の将来を考えると、秋篠宮さまに3人目を希望したい』と発言。本来、雅子さまを支えて然るべき立場である宮内庁トップの発言に、雅子さまが悩まれたことは想像に難くありません」(別の皇室ジャーナリスト) しかし、そんな中で頼れるのは陛下だけ。陛下による「人格否定発言」はその翌年のことだった。「湯浅長官は“発言の真意を伺いたい”と陛下への面会を求めましたが、実現しませんでした」(別の皇室記者) 天皇陛下や雅子さまを支えるべき存在との間に見えた「溝」。だが、それは長い時を経て、ようやく解決へと向かっている。※女性セブン2021年4月22日号 
2021.04.09 07:00
女性セブン
岩手県の被災者らとオンラインで懇談された(宮内庁提供)
被災者に寄り添う天皇陛下 警備不要のオンライン行幸にも強い意欲
 多くの人々に苦難を与えた2011年の東日本大震災。当時の雅子さまもまた、皇太子妃として試練のときを迎えていた。「震災が起きたのは、雅子さまが小学生の愛子さまに付き添い登校をされ、“異様な親子”と心ないバッシングを浴びていた頃。適応障害も一向に快復の兆しをみせず、最もおつらい時期だったようです。 しかし、それから10年が経ったいま、雅子さまは皇后として日本中から敬愛される存在となっています。まさにその10年間は、雅子さまが被災地とともに歩まれた“再生の物語”でもあったのです」(皇室関係者) 3月11日、天皇皇后両陛下は、東日本大震災十周年追悼式(東京・千代田区)に出席される予定だ。「快復の途上にある雅子さまが出席できるか不安視する声もありました。ですが、式典に備えて1時間近くのウオーキングに励まれるなど、体調を万全に整えられていたそうです」(宮内庁関係者) 厳戒態勢の中、強い決意で出席を目指された両陛下。被災地への並々ならぬ思いは、式典に先立ち3月4日に行われた、被災地・岩手県への「オンライン行幸啓」にも見て取れた。「通常、予定通りに終了するオンラインでのご公務ですが、その日は予定の時間を過ぎてもしばらく続きました。雅子さまが積極的に被災者の話を引き出され、自然と会話が弾んだからでした」(前出・宮内庁関係者) 直接のふれあいができない中でも、少しでも国民の中に入っていけるよう、両陛下は模索を続けられているようだ。「陛下は近しい人に“オンラインで参加できるものがあれば参加したい”と話されているそうです。オンラインだと警備の必要がなく、周囲の手を煩わせることもないという思いやりもあるのでしょう。愛子さまはオンラインで大学の講義を受ける中で、チャット機能を使って活発に質問もされているようです。ご一家で積極的に『新しい様式』を取り入れられる、柔軟な姿勢を感じます」(学習院関係者) いまでこそ新しい取り組みにも柔軟な天皇ご一家。だが、震災発生からこの10年の道のりは、被災地の復興の歩みと一緒に、ゆっくりと進まれてきたものだった。フランクに「いつもどんな遊びしているの?」 震災発生から3か月後の2011年6月を皮切りに、当時、皇太子同妃両殿下だった両陛下は宮城・福島・岩手の東北3県を訪問された。「数回にわたるご公務でも、雅子さまはご体調の不安を微塵も感じさせませんでした。被災者の中には雅子さまの手を握って離さない人もいましたが、“励まし”を優先された雅子さまは、ずっと手を握られたまま話を聞かれていました」(別の宮内庁関係者) 2013年11月に岩手を訪れた際には、見送りに集まった人々とお話しされるため、車に乗り込まれる前に砂利道へと降りて行かれたこともあった。「当初の予定を20分ほど遅らせ、その場で被災者に声をかけられていました。咄嗟の機転で本来ご予定になかったことをされ、少しでも多くの被災者との対話を実現されたのだと思います」(皇室記者) 同年に両陛下は、教育復興プログラム「OECD東北スクール」の発表会に出席され、翌々年の2015年2月には、スクールの生徒たちを東宮御所(当時)に招いて取り組みの報告も受けられた。スクールの立ち上げから支援をしている福島大学学長の三浦浩喜さんは、当時の印象をこう語る。「雅子さまは子供たちに“元気になってね”と声をかけられるだけでなく、“今回の経験を今後の進路にどう生かしますか”と生徒たちに質問されていました。ただ励ますだけでなく、もっと先の将来を考えてくださったように感じます」 2013年9月にはNPO法人「郡山ペップ子育てネットワーク」が運営する屋内遊戯施設を両陛下で訪問された。「遊具で遊んでいた子供たちに声をかけてくださり、“よく遊びに来るの”“いつもどんな遊びをしているの”と、とてもフランクにお話しされていたのを覚えています。それまで遠い世界の存在に感じていたのですが、お話しさせていただくととてもお優しく教養高い、人間的に心惹かれる方だと実感いたしました」(理事長の菊池信太郎さん)※女性セブン2021年3月25日号
2021.03.11 11:00
女性セブン

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