「この軍刀は私の魂だ。武運つたなく最後のときは、自分の一命を断つために何時も自分のそばに置いていた。もちろん飛行機にも持って乗った。そうだ、武士の魂のこの軍刀にまさるお土産は、ほかにはない。この軍刀を研ぎに出して手入れをし、茨城県庁や文部省に赴き、持ち出しの手続きを取った」
渡米の少し前、藤田はブルッキングス市のJC(青年会議所)からの招待状を土浦市内の自宅で受け取った。外務省から届けられたJCからの招待の「真意」が判らず、彼はその真意を尋ねる手紙を出す。向こうからの返書はこうであった。
「米国は開国以来、未だかつて外敵の侵入を許したことがありません。太平洋戦争において貴殿は、この歴史的な記録を破って単機でよく、米軍の厳重なレーダー網をかいくぐり、米本土に侵入し、爆弾を投下致しました。貴殿のこの勇気ある行動は敵ながら実に天晴れであると思います。その英雄的な功績をたたえ、日米の友好親善を図りたいと我々は考えております」
◆レーガン大統領からの賛辞
その後も草の根の日米交流を続けた藤田は、JCなどから招待された時の恩を何とか返そうと、ずっと思い抱いていた。しかし、戦後自分が育てた会社が倒産。一家は離散し、彼は人生をやり直そうと、齢六十八の時、伝手をたどって電線会社の神奈川県内の工場に住み込み、従業員の送迎バスの運転手として雇われる。
質素で「清貧」を旨として少ない給料から借金の返済と毎月三万円のお金を蓄え、あの時の恩を返そうと、懸命に努力する。ブルッキングスの高校生を日本に招待するため、藤田は無我夢中で働いた。