大空から母艦を探すのは大海原の中で棒きれを探すのに等しい。
また、敵機に追尾されると、潜水艦は敵の攻撃を避けるため、海中深く潜らねばならない。この時点で藤田機は自爆しなければならないのだ。苦心の末、母艦である二五潜水艦を見つけ、藤田機は大きくバンク(左右に交互に翼を傾ける運動)をしながら、母艦脇に着水した。
◆「敵ながら実に天晴れ」
戦後、藤田一家は米国から招待を受け、昭和三十七年五月二十三日、羽田空港を出発。
オレゴン州ブルッキングスのアゼリア祭りは毎年五月に開催され、ブルッキングスの最大行事といえた。紺碧の澄み渡った空の下、主催関係者と主賓役の藤田一家が壇上に並び、市民らに手を振っていた。彼は思う。どうして市民はこんなにも自分たちを熱烈に歓迎してくれるのだろうか──。大勢の市民らは思いおもいにカラフルな装飾を施した姿でパレードに参加し、一家の方へ手を振っている。
州内の各新聞は連日、日本からの“英雄”一家の歓迎ぶりを大きな題字と大きな写真で報道していた。五月二十九日付の「タイムズ」では「フジタのサムライ剣、ブルッキングスの市長へ寄贈」と、写真と見出しが躍っている。彼は日本からのお土産を何にしようか、渡米前に迷っていた。自分が任官した時、日本刀を軍刀に造り替えていた。その軍刀をお土産にしたのだ。