たとえば電車に乗ったとしよう。その場合、隣にデブな男が座っていたら正直ウザいと思う人もいるだろう。「このクソデブがいるせいでこの一つ空いている席は狭くなっている」と考えるからだ。だからこそこのデブ男がいない方が全体最適の考えからすれば幸福感は増す──これは明らかに差別である。
ただ、「デブ差別」自体は社会的なイシューになっていないため、こんな考えをする者を批判しても共感はされない。実際私もここではなんとか極論を無理矢理出したのでデブ差別をしたいとは思っていない。「デブ差別をする人間を糾弾する」ということは、冗談としてしか受け止められない現状があるだろう。
そんな中、LGBTが差別されていると訴えることはそれなりの共感を得る状況になっている。私自身は中学校と高校時代、アメリカの超保守的なエリアに住んでいた頃、「ホモ」と誤解されとんでもない差別を受けた。英語では「fag」と言うのだが、まぁ、イヤというほどこの言葉を浴びせられた。いかにアメリカが不寛容かを知って日本に帰ってきてその寛容さに感謝したが、今やLGBT当事者ではない周辺の活動家が、「LGBTを差別している」として日本社会への糾弾を活発化させている。
これが果たしてLGBT当事者にとって良好な結果をもたらしたのかはこれから検証すべきであろう。ツイッターを見ると、当事者からは「私はLGBTではなく、ただのホモ・オカマだと改めて宣言いたします。LGBTのような差別集団とは一緒にされたくないわね」(月清氏)というコメントも出た。
マイノリティを自身の政治的主張に利用するという姿勢は真に慎むべきではないだろうか。こう述べると私自身も「ネトウヨ」扱いされる。くそ。
●なかがわ・じゅんいちろう/1973年生まれ。ネットで発生する諍いや珍事件をウオッチしてレポートするのが仕事。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』など。
※週刊ポスト2018年10月12・19日号