「ダイレクトメールを出すための便箋や封筒は松竹からもらってきました。長距離電話は高いので、レコード会社に行った時に借りていましたね(笑い)」
映画はヒットし、森田には1日1000通ものファンレターが届くようになる。6畳1間の事務所は足の踏み場に困るほどだった。相澤はさらに攻勢を仕掛け、新宿で靴店の店員だった野村真樹を口説き落とす。1970年、『一度だけなら』でデビューさせると同年、憧れの「NHK紅白歌合戦」初出場を果たした。
「その後、手狭になり移った事務所は陽当たりも悪くて、昼でも電気をつけないと字が読めないほど暗かった。その場所でオーディションもしましたよ。審査員が5人いるのに、台風で2人しか来ませんでした(笑い)。その1人が演歌歌手の牧村三枝子だったんです」
◆松田聖子は自分で運を掴んだ
1972年、福田は『スター誕生!』(日本テレビ系)の秋田県予選で原石を発見する。阿久悠が「かわいいだけで天才だ」と評した桜田淳子である。
「決戦大会では、番組史上最多の25社がプラカードを一斉に挙げた。後楽園ホールの下にある中華料理店で1社3分、お金の話はしないという条件で両親と交渉しました」
淳子は「森田健作の妹役があるかもしれない」という福田の言葉に惹かれ、サンミュージックを選択。1973年に日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得した。