「デビュー8年目でようやく売れたのですが、同時に本家本元のレコードも伸び始め、牧村の売り上げが止まった。すると、渡さんが『俺は役者だから別に売れなくていい。あの子は8年も苦労してきたんだから』と自分の出荷を止めてくれました」
『みちづれ』が98万枚の大ヒットとなる1979年、17歳の女子高生がオーディションを受けにきた。前年の「ミス・セブンティーンコンテスト」の九州地区大会で優勝していた蒲池法子(のちの松田聖子)である。ソニー・ミュージックの若松宗雄ディレクターの熱心な勧めで会うことになったが、当時事務所は乗り気ではなかった。
「1980年春にソニー制作1部で郷ひろみや山口百恵を育てた酒井政利ディレクターのもと別の歌手のデビューが決まっていたんです。同じレコード会社から同時期に2人は難しいと。でも、聖子の歌声を聴いて、これはイケるなと」
その後、猛反対する父親を説得するため、福田が実家の久留米に赴くと、厳格な家庭像が垣間見えた。
「聖子は、紅茶を出した後も、お盆を持って板の間に正座したままでいました。父親が許すまではテコでも動かないぞという顔をしていた。しっかりしているなと。『高校卒業後に東京に出ていらっしゃい』と伝え、1980年秋のデビューを考えていました。ところが、1979年の夏休みには出てきてしまい、仕方なく相澤の家に下宿することになりました。もし1980年3月の上京だったらと考えると……。聖子は、自分で運を掴んだんです」
1980年2月、CMタイアップ予定の別の歌手のデビュー曲は商品の事情からCM自体が延期になったこともあり、聖子のデビューは4月1日に繰り上げられた。折しも、山口百恵が三浦友和との婚約を発表し、10月限りでの引退を表明。2曲目『青い珊瑚礁』が大ヒットした聖子は、「ポスト百恵」の座を射止めた。
取材・文■岡野誠
※週刊ポスト2018年11月30日号