熊本西を訪れたのは、正月の休みが明け、今年の初練習となった1月4日だった。グラウンドの入り口には、生花やジュースが供えられ、練習開始を前に、選手が手を合わせてグラウンドに飛び込んでいく。訪れた保護者や関係者も、手を合わせて黙祷する。そんな光景が繰り返された。
15歳から17歳の高校生は、肉親の死にも直面した経験が少ない年代だろう。彼らは目の前で仲間を失った。そのショックは、動揺は、想像を絶するが、いざ練習が開始されれば、全国のどこにでもある、熱心に白球を追う球児の懸命な姿があった。横手監督が話す。
「そうですね。ようやく落ち着いてきたようにも思います。もちろん、忘れているわけではないんです。大志のことをみんな、心の片隅に置きながら、前を向こうとしている。大志のお父さんからも、未来に向かって下さいというようなありがたいお言葉をいただきましたから。ただ、その言葉をいただいたからといって、大志のことを過去にするわけにはいかないです」
事故の2週間後、練習を再開すると、仲間の死の影響は少なからず、練習に表れた。
「カウンセリングを受けた選手もいますし、バッターボックスに立って、『踏み込んで打つのが怖い』と話した選手もいました。ですから、フリーバッティングもしばらくは控えていましたし、実践メニューもまだ抑えている状況なんです」
日本高野連によれば、試合中のデッドボールで打者が亡くなった事故は、記録が残る1974年以降、3例目だという。不幸にも命の救済にはつながらなかったものの、事故発生から救急車が到着するまでのおよそ5分から6分の間、グラウンドにいた者がすべきことを的確に判断し、冷静に対応した。熊本県の公立校の教職員は年に一度、AEDの研修を義務づけられ、熊本西でも講習会を選手が受講していたという。こうした経験が冷静で迅速な対応につながったのだろう。
また通常の練習から安全面には注意を払い、試合で使用するヘルメットも、一度、デッドボールを受け強度を失ったものは使用していなかった。
「避けられた事故だとは思いません」
そう、横手監督は話す。しかし、教え子の命が奪われた以上、ことあるごとに、「たられば」が頭をよぎる。
「あの日の夜に振った雨がもう少し早く降っていたら試合を中止していたかもしれない……」
「もし代打に送り出さなければ……」
事故から得た教訓はという問いに、横手監督は言葉を詰まらせ、答えを見つけることはできなかった。
しかし、こうした学校側の適切な対応があったからこそ、息子を失った遺族も、教員や選手たちをむしろ激励するような言葉をかけられたのではないだろうか。
葬儀の日、大志君の父親は喪主挨拶で、事故時の相手投手を気遣う言葉を口にしたという。
「来年の夏、藤崎台球場(熊本大会が開催される熊本城内にある球場)で投げる日を楽しみにしています」
今、甲子園という目標が、新年を迎えた熊本西ナインの歩みを支えている。横手監督は言う。