1975年の初訪問以来、今上天皇が長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という新しい時代の「天皇のかたち」を探し求めた“原点”となっている。その沖縄の歴史において、天皇皇后両陛下が特に心を痛めた事件がある。乗船者約1800人のうち、学童780人をふくむ1500人近くが犠牲になった「対馬丸」の悲劇だ。『天皇メッセージ』著者であるノンフィクション作家・矢部宏治氏が解説する。
* * *
第二次大戦中に米軍の魚雷攻撃によって撃沈された、悲劇の学童疎開船「対馬丸」。その物語は沖縄では有名ですが、本土ではほとんど知られることがありません。
しかし、明仁天皇と美智子皇后のおふたりは、犠牲者の多くが自分と同じ年代の子どもたちだったこともあって、早くからこの事件に関心を寄せてこられました。
大戦末期の昭和19年(1944年)6月、日本はマリアナ沖海戦で決定的な敗北を喫し、サイパンやテニアンをはじめとする、西太平洋の重要な戦略拠点をすべて奪われてしまいます。
次は沖縄が攻撃目標となることは確実な情勢にありましたが、この時点でもなお戦争の継続を望んだ日本の軍部は、「未来の兵士たち」を温存するという目的もあって、沖縄から九州に8万人、台湾に2万人の学童を疎開させる計画を立てたのです。
しかし同年8月21日、那覇港から長崎へ向けて出航した対馬丸は、翌日、米軍の潜水艦ボーフィン号から魚雷攻撃を受け、撃沈されてしまいました。乗船者約1800人のうち、学童780人をふくむ1500人近くの疎開者が犠牲になったと考えられています。
この悲劇から70年たった平成26年(2014年)6月、明仁天皇と美智子皇后は対馬丸の犠牲者を慰霊するためだけの目的で、沖縄を訪問されました。これは、ひめゆりの塔事件に遭遇された1975年の初訪問から数えて、10度目の訪問となりました。
「護衛艦は救助に向かわなかったのですか」
この言葉は、対馬丸記念館で事件の概要について説明を受けていたときに、船が沈んだあと、なぜ護衛艦が児童の救助に向かわず危険海域から脱出したかについて質問されたものです。
この言葉に重ねて明仁天皇は、「護衛艦は、そういうときには助けないという、そういう決まりになっていたんですか」とも聞かれたそうです。(「サンデー毎日」2014年7月20日号)