このとき、日本赤十字をはじめ、軍や警察、役場、敦賀市民は、孤児たちを温かく迎え入れた。食事や菓子でもてなし、病気の治療にあたるなど、手厚く養護したのである。
こうして1922年8月までに救出されたポーランド孤児は765人を数えた。ポーランド政府の要請で、元気を取り戻した孤児たちは横浜港や神戸港から祖国へ帰還していった(*1)。
【*1:初期に日本に来たポーランド孤児は渡米し、米国在住のポーランド人たちに引き取られた。】
ところが、船で日本を離れるとき、感動的な出来事がおきた。ポーランド孤児たちは「日本を離れたくない」と泣き出したのである。
シベリアで極寒・極貧の生活を強いられてきた孤児たちにとって、日本はまさに天国だったのだ。孤児らは船上から「アリガトウ」を連呼し、「君が代」とポーランド国歌を高らかに歌い感謝の意を表して別れを惜しんだという。
◆阪神淡路大震災で恩返し
祖国に送り届けられた孤児らは、ポーランド北部のグダニスク郊外の町、ヴェイヘロヴォの施設に収容されて養護された。その場所は現在、特別支援学校となり、当時孤児たちが過ごしたレンガ造りの建物がそのままの姿で使用されている。
驚くべきは、廊下に日の丸とポーランド国旗をあしらった孤児救出のパネルが飾られ、100年前の出来事が今もしっかりと語り継がれていることだった。
その中に私の興味を引いた一枚の写真があった。