「病気であるかどうかの定義は、社会生活がどの程度侵されているかに関わってくる。イップスによって、野球選手としての仕事ができなくなっている場合は、病気と定義するしかありません。イップスとは、自身の随意筋(自分の意思で動かすことのできる筋肉)に対して、脳から意図していない信号が送られて、随意筋が意図しない動きをしてしまうことをいいます(転換性障害)。以前なら自然にできていたことが、邪念が入ったことによってできなくなってしまうのですね。藤浪選手の場合は、『普通に投げる』投球行動の中に、余計な信号が入り込んできてしまい、まるで意図していない右方向にボールを投げてしまう。マウンド上で起きていることから判断する限り、藤浪選手を悩ませているのはイップスです」
イップスはあらゆるスポーツのシーンで起こっている。ゴルフのパターイップス、ドライバーイップスは有名だが、背負い投げが掛けられなくなった柔道家や、鍵盤を押せなくなってしまったピアニストなども報告されている。また、日常生活の中で――たとえば大勢の前でプレゼンテーションをするような機会に、緊張によって口ごもってしまったり、赤面してしまって予定とは違う行動をしてしまうようなことも、イップスと同じ状態だ。つまり、誰にでも起こり得る。
「筋肉が硬くなって動けなくなる状態をジストニアと言います。スポーツで起きると、アスリートジストニア。音楽家の場合はミュージシャンジストニアと呼び、これは作家が文字を書けなくなる書痙(しょけい)とも一致する。スポーツに限らず、いろいろな分野でイップスと同じことが起きている。しかし、こういった現象がすべて同じ病気と定義づけるまで、現在の医学は発達していません」(岡野教授)
アスリートを苦しませるイップスに克服法はあるのか。岩本氏は言う。
「最初に、自分がイップスであることを認めること。次に、それを人にさらけ出すこと。そして、向き合うこと。しかし、プロ野球選手としてイップスを公言することは、ファンに野次られますし、なかなかできることではないんです。それから僕のような経験者の声に耳を傾けることも大事ですね」──岩本氏の場合は、入団から4年目の1993年、イップスを患った状態のままでは近い将来のクビは免れないと覚悟し、潰れてもいいと開き直ってひたすら白球をネットに投げまくる日々を送った。
「それこそ目をつむってても投げられるようにと思って。自転車って一度、乗る技術を身につけたら、忘れないじゃないですか。ピッチングをそんな状態にまでもっていったろ、と。全体練習後の夜10時から毎日1000球投げました。それが良かったなと思います。その後、サイドハンドに転向したり、試行錯誤は続きましたけどね」──6年目の1995年にプロ初勝利を上げると、翌年には10勝を挙げ、日本ハムのエースにまで成長していく。岩本氏が続ける。
「藤浪が本当にイップスかは分かりませんが、僕ならば、もしかしたら藤浪をガラッと違うピッチャーにできるかもしれない。きっと今、(投球時に)『(身体を)突っ込むな』と言われていると思うんですよ。僕なら『突っ込んでいけ!』って言いますね。それに、高校時代のようにクロスステップで投げればいいんですよ。シュート回転するストレートを武器と思って、右打者の懐に投げ込んでいけばいい。ぶつける心配はあるでしょうが、プレートを踏む位置を工夫したりすれば、回避できる。とにかく、投手としての彼を肯定してあげて、本人をその気にさせると、ポジティブな思考に変わるじゃないですか。きっと現在の藤浪はネガティブになっていると思うんですよ。イップスという魔物は、ポジティブなヤツに対しては、“しばらく潜んでおいてやろう”となる。半面、ネガティブなヤツは大好物なんです」
これまでイップスに悩む野球選手、アスリートにトレーニングの指導を行い、克服の手助けをしてきたのが兵庫県神戸市でパフォーマンスアップジム「ウイニングボール」を主宰するトレーナーの松尾祐介氏だ。