実際に制作部に異動して最初に自分で立ち上げた番組の出演者は、ダウンタウンでもなくとんねるずでもなく、鈴井貴之という地元のローカルタレントと大泉洋という無名の大学生でした。
しかしながら、入社以来5年間も視聴率とお金の計算に明け暮れた身としては、「高視聴率を取らなければ番組を作る意味はない」と思っていましたから、この地味なメンツでどうやったら視聴率が取れるのかを真剣に考えていたわけです。
弱者が勝つためには、カウンターパンチを狙うしかない。王道ではなく邪道、常識ではなく非常識、セオリーではなくオンリー。そこを恐れずに突き進んでいこうと心に決めました。
番組の中身よりも先に、もっと根本的な「番組の作り方自体」を変えていく。そのためには制作者自身が、これまでの常識的な仕事の進め方にとらわれずに、会社から「え? そんなことして大丈夫?」と驚かれるぐらいのやり方で仕事を進めていく。そこまでやって初めて、本物のカウンターパンチを繰り出すことができると思ったんです。
そうやって作っていったのが「水曜どうでしょう」という番組でした。
20代のころは、僕も希望の仕事ができずに不満を抱えていました。仕事を面白いと思ったことは一度もなく「仕事をこなすだけ」の毎日。週末になれば仕事のうっぷんを晴らすかのようにキャンプをしたり釣りをしたりカヌーをしたり、思いっきり遊んでいました。ただテレビの収支構造だけは頭に入りましたし、週末の遊び体験が後の番組作りに大きな影響を与えました。
そもそも制作部に異動したのがちょうど30歳のとき。制作者のスタートとしてはかなり遅い方です。『水曜どうでしょう』を立ち上げたのが31歳。嬉野雅道・カメラ担当ディレクターと2人だけで番組を毎週作っていました。