筆者は当時、産経新聞記者として北京の現場にいた。戒厳令布告は1949年の中華人民共和国成立以来初めてであり、市内は緊迫した空気に包まれていた。天安門広場を取り囲むように軍兵士を乗せた軍用トラック数十台が駐屯し、市内上空には軍の戦闘機や戦闘ヘリコプターが旋回。党政府機関や要人の住居が集中する中南海にも軍が駐留しており、トウ氏による「攻撃開始」の指示を待っていた。
「戒厳令布告直後に出された北京市人民政府令第1号には『戒厳令期間中、デモ、請願、授業ボイコット、ストおよびその他多数が集合して行なう正常な秩序を妨げる行為を厳禁する』『オルグ活動、演説、講演をすること、ビラを配ること、社会の動乱を扇動することを厳禁する』とあった。そしてこれに抵触した場合、『公安幹部警察、武装警察部隊および人民解放軍の任務遂行者はあらゆる手段により強制的措置をとる権限を有する』としたのです。
北京郊外の首都鋼鉄本社や工場にも1個師団約1万人の軍部隊が派遣され、監視の目を光らせていた。労働者は実質的に身動きがとれない状況に追い込まれていました。軍や武警、警察の強権発動を恐れた労働者は多く、地方に逃走したり、地下に潜むようになってしまった。
私はゼネストを実施するか、最後まで悩みに悩みました。仮に強行すれば、参加者の命の保証はできない。我々は労働者の命を犠牲にしてまで踏み切れなかった。かくしてゼネストは幻と終わってしまった」(陳氏)
陳氏は悔しそうに振り返ったが、一方で「現在も天安門事件当時のような労働者の怒りは確実にある」と指摘する。
香港に拠点を置き、中国本土の労働運動をウォッチする「中国労工通訊(CLB)」は、「中国全土で労働者デモが1日平均で10件以上、年間では4000件にも上っている」と発表している。米中貿易戦争の激化で失業者が増加すれば、最高指導者である習近平氏ら共産党最高指導部への反発はさらに大きくなり、デモやストライキはさらに増加するだろう。1989年6月4日から30年──「第2の天安門事件」発生の“土壌”は、確実に中国に広がりつつある。
●取材・文/相馬勝(ジャーナリスト)