最後の家族写真。ミッドウェー海戦の2か月前に撮影した(山口宗敏氏提供)
太平洋戦争開戦後、日本の機動艦隊は連戦連勝を重ねたが、ミッドウェー海戦では連合国軍の一方的な先制攻撃を許し、航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」が相次いで被弾、炎上した。圧倒的劣勢に追い込まれた「飛龍」は多聞中将の指揮のもとで決死の反撃を開始し、残った航空戦力で米軍の航空母艦「ヨークタウン」を航行不能に追い込んだ。
だが敵急降下爆撃機の空襲を受けて「飛龍」は炎上。多聞中将は沈みゆく乗艦と大勢の部下とともに運命をともにした。
「自ら率いた第二航空戦隊の蒼龍と飛龍が炎上して多くの部下が戦死するなか、自分だけのこのこと帰ってはこれなかった。ミッドウェー海戦の2か月前の昭和17年4月に靖国神社の近くで家族写真を撮影しましたが、親父はこの頃すでにミッドウェー海戦が避けられないことを知っていて、死ぬ覚悟だったと思います」(宗敏さん)
戦後の復興期を銀行員として過ごした宗敏さんは、リタイア後に戦地での各種慰霊祭に参加して、戦死者を慰霊する旅を続けた。亡き父が眠るミッドウェーの地を訪れた際は、敵艦だった「ヨークタウン」の乗組員と面会し、日米両国の戦死者を弔った。