1980年代後半にバブルがはじけた。久保が中学生だった1990年代半ばは就職氷河期で、新卒採用では学歴が重視される時代。受験戦争は熾烈だった。“いい大学に行きたい”という久保の考え方は当時の学生として珍しくなかったが、野球でまばゆい才能が集まる「松坂世代」では異色だった。進学した関大一高(大阪)でエースになったのは2年秋。同級生がヘルニアで投げられず、一学年下の有望株も故障していた。久保の当時の球速は135キロ。「強豪校には打ちごろの球だった」といい、試合で滅多打ちを食らうことも少なくなかった。1998年のセンバツに出場できたのも「運に恵まれたから」だと振り返り、当時は「甲子園に来たから推薦でいい大学に行けるやろ」とチームメートと話していたという。
ところが、無欲の快進撃で勝ち抜いて決勝の舞台に。相手は絶対王者・横浜だった。開会式で記念撮影してもらった松坂と対戦するなんて全く想像もしていなかったという。
実際に対戦して力の差に虚しさを感じた。松坂の集中力を削ごうと、イニング間にマウンドですれ違うたびに「暑いな」、「ナイスピッチング」とか話しかけたが、松坂は「そうだね」と穏やかだった。打席では内角攻めにも動じない。制球ミスでぶつけてしまった時も、顔色一つ変えず一塁に向かう松坂の姿を見て、「無理や」と感じたという。
試合は0-3で完封負け。久保は6回まで1失点と好投したが、「あの試合、ホームスチールを仕掛けたけど簡単に見破られた。レベルが違いすぎて奇襲にならない。打席でも松坂の球が見えない。悔しさなんて全くなかった」とスコア以上の実力差を痛感した。
◆「同じチームで一緒に過ごしたい」
松坂は高卒1年目に西武で最多勝を獲得。久保は大学進学に失敗し、松下電器に入社した。次元が違いすぎて刺激にもならなかった。そして、松坂から遅れること6年。2004年、24歳でロッテに自由獲得枠で入団した。才能がないことを自覚しているからこそ、「プロも就職先の一つ。松下に残った時の生涯年収を稼ぐためにプロで10年頑張ろう」と目標は決して高くなかった。