ベストセラー連発の歴史学者が光秀の真実を語った
よく「明智の三日天下」と言われますが、それは光秀にとって不本意な結果だったのは間違いない。きっとその後のプランも練っていたはずです。
光秀は(信長にとって重要な)京を抑えている。信長のように全国統一を狙わなくても、近畿さえまとめれば家臣を路頭に迷わせることはないと踏んだのではないか。
本能寺の変の後に、光秀が細川幽斎にあてた書状があります。そこには、「自分は私利私欲で信長を討ったのではなく、(幽斎の子の)忠興らを取り立てたいがためである。近国を平定したのちは息子や忠興に譲って引退しようと思う。だから味方になってください」と書いてある。
これは細川を味方につけるための方便でしょう。切羽詰まった時、人間は何だって言いますからね。
でも、光秀の娘のガラシャが嫁ぎ、血縁を通じた盟友でもあった細川幽斎・忠興父子が同調しなかったことは大きな誤算でした。縁の深い細川がつかないのでは、明智につくのはやめようかという流れが広がったのではないでしょうか。
【プロフィール】ほんごう・かずと/昭和35(1960)年、東京都生まれ。東京大学、同大学院で石井進氏、五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。著書に『上皇の日本史』(中央公論新社刊)、『承久の乱』(文藝春秋刊)、『乱と変の日本史』(祥伝社刊)、『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社刊)など。
■構成/内田和浩
※週刊ポスト2020年1月31日号