われわれが人生で最も「無常」を感じるのは人の死の場面に立ち会ったときです。人間のだれもに平等におとずれる普遍的な「死」なるものを「ありのままに」みる、ひるまず徹頭徹尾、凝視しつくす──これがブッダがかれの教えに従って「悟り」をめざす修行者全員に課した課題でした。
たとえ死が現代人にくらべてはるかに身近であった2500年前のインドでも、こうした修行がまったくのストレスなしにおこなわれることはあり得ません。
しかも、ブッダの弟子たちの場合、ストレスはたんに腐臭のなかで死体と対面しつづけることにとどまらなかった。
そこには性的な禁欲のもとにある修行者ならではの苦痛が発生し、『律蔵』の性行為をめぐる禁止の条文の背景をつくることになったのです(*編注)。
【*編注/出家修行者の生活規則を定めた仏教の聖典『律蔵』には、性交を禁じる条文が多くある】
『律蔵』の禁止規定は、罪の重いものから順番に書かれているのですが、その冒頭に並べられているのが性行為の禁止の規定。それは盗みの禁止はおろか殺人の禁止よりも前におかれているのです。
ブッダの高邁(こうまい)な教えを「ハス」の花とするならば、これらはそれを支え、咲かせる「泥」にあたる部分の問題です。仏教の「本質」と呼べるものは文字通りドロドロしたこの土壤、「泥」をつかんで初めて理解できるものです。
●平野純・著『怖い仏教』(小学館新書)を一部抜粋のうえ再構成