しかし南方のそれが違うのは、柳田の「変遷」は最後は「私」が帰属する「大きな物語」に向かうが、南方は、これはぼくの感想だがシャーレの中で粘菌でも繁殖させる観察実験をしているように思えるからだ。それは「実験」を自分自身の経験の意で用いた柳田とも異なる態度だ。
だが、そう言った違いとは別に著者の示唆するように南方の知をデータベース的と見た時、私見では同じ構想は柳田や折口にもあり、これからの「知」としての民俗学の検証にも繋がってくるように思えその点が何より興味深い。
※週刊ポスト2020年5月1日号