この年、野村監督は川崎、西村の2本柱を計16度も巨人戦に先発させた。ヤクルトはこの2人で9勝を稼ぎ、巨人に14勝12敗と勝ち越し、11年ぶりのAクラス入りを果たす。こうして巨人コンプレックスを払拭し、翌年には14年ぶりの優勝を勝ち取った。同年、川崎は故障で1年を棒に振ったが、1993年は10勝でカムバック賞を受賞し、連覇に貢献。巨人戦の3勝(2完投)はチームトップだった。
「2年目に吉村さんに優勝決定のサヨナラ本塁打を打たれ、悔しくて仕方がありませんでした。あの経験で、巨人戦ではより一層燃えるようになりました。ただ、個人的にもチーム的にも、巨人だからといって、特別な戦い方をするわけではありません。投球の基本はいかにインハイ、アウトローに投げ切れるか。インコースは死球の危険性もありますし、コントロールを少し間違えれば一発を食らう可能性もある。それでも、(捕手の)古田敦也さんは要求しましたし、投手陣は臆することなく投げ切った。だから、巨人に勝てるようになったし、優勝もできた」
ヤクルトは1995年17勝9敗、1997年19勝8敗と巨人に大きく勝ち越し、セ・リーグを制覇。その一方で、川崎の“巨人キラー”というイメージは徐々に薄れていた。1994年、巨人戦に6度先発も1勝5敗。シーズン全体でも6勝9敗、防御率4.79と低調だった。その後2年間はケガで、巨人戦の先発はなし。1997年は3度先発したが、チーム最多はブロスの7度。勝ち星も吉井理人、田畑一也、石井一久が各3勝で、川崎を上回っていた。
岐路に立っていた本格派に、野村監督は『シュートを覚えろ』と指令を出していた。当初、川崎は乗り気ではなかったが、1998年には自身の大きな武器となる。野村政権最終年の同年、巨人戦にチーム最多の7度先発し、6勝を稼いだ。右打者の清原和博や石井浩郎の内角をシュートで攻めて内野ゴロの山を築き、“巨人キラー”の称号も復活した。
野村監督時代の9年間で、川崎は巨人戦最多勝(21勝)、チーム最多の69勝をマーク。今季からヤクルトで指揮を執る高津臣吾は、最多セーブの98を記録している。1993年、西武との日本シリーズ第7戦では、川崎・高津のリレーで野村監督が初の日本一に輝いた。かつての盟友である高津新監督を、川崎はどう見ているのか。