信介と寛、両祖父の邂逅
寛は政界で同じ非推薦の三木武夫(元首相)や前述の赤城らと行動をともにしたが、戦時下の国会では非推薦議員は質問や発言の機会をほとんど与えられなかった。
その頃、東條内閣の商工大臣として飛ぶ鳥を落す勢いだったのが安倍のもう一人の祖父・岸信介である。岸は寛より2歳年下だ。政治的立場が正反対だった寛と岸は、戦況が悪化していた1944年秋に会っている。
その頃、東條と政治路線で対立した岸は内閣改造を失敗させて東條を退陣に追い込むと、野に下って「防長尊攘同志会」を組織し、地元の山口県内を遊説して回っていた。その途中で、病気療養中の寛を見舞ったのだ。商工次官、大臣を務めた岸と、同じ山口県選出の代議士で衆院商工省委員だった寛は、以前から顔見知りだったとされる。
ただし、このとき2人が意気投合したという記録はない。前掲書『いざや承け継がなん』には同席者のこんな証言が記されている。
〈お見舞いにすぎなかったような気がする。その時はまさか、寛の息子と岸の娘が一緒になると思わなかった〉
では、岸の目には、寛はどんな政治家に映っていたのだろうか。後年、岸は回想録『岸信介の回想』で寛についてこう記している。
〈この安倍寛というのは“今松陰”と称せられた気骨のある人で、ただ結核で五十くらいで亡くなった。とにかく三木、赤城は安倍の子分だ。だから三木武夫が総理のときもわざわざ安倍の親父の寛の墓参りまでしてくれたよ〉