「反戦」より「父への反発」
岸と寛が会談した前後、晋太郎は東大法学部に入学(1944年9月)と同時に海軍滋賀航空隊に飛行専修要務予備生徒として入隊し、翌1945年春、全班員とともに特攻隊に志願する。
家族に別れを告げるために帰省した晋太郎は、寛から「戦争は負けるであろう」という見通しを伝えられた。「敗戦後の日本には若い力が必要になる」とも。その後も、寛は特攻に志願した一人息子に会うために病をおして何度か滋賀航空隊に面会に出向いている。
出撃前に終戦を迎えて生き残った晋太郎は、1951年に岸の娘・洋子と結婚。1954年に晋三が生まれる。そして、寛の死から12年後に、その遺志を継いで代議士となり、1974年に父の盟友だった三木武夫内閣で農相として初入閣する。岸が「三木がわざわざ寛の墓参りをしてくれた」と語ったのは、この時のことだ。
バランス感覚に優れた晋太郎は「俺は外交はタカだが、内政はハトだ」と常々話していたが、生涯、「岸の娘婿」と呼ばれることを嫌い、「俺は安倍寛の息子だ」と誇らしげに語っていた。
筆者は特攻隊に志願した時のことを振り返った晋太郎から、「二度と戦争をしてはいけない。平和は尊い。それが生き残った我々の責任だ」と聞かされた言葉が、強く耳に残っている。
自らの体験と「反戦政治家」である父・寛の背中を見て育ったことが晋太郎の〈政治の原点〉になるのは必然の流れだったであろう。