「この頃は、石原プロが揺れていてね。後進を育てて事務所を存続させるべきとする意見と、もう解散すべきという意見に割れて、団結力が弱まっていた。渡さんの役員復帰は、鉄の結束の再建という意味で必要不可欠な要素だったのです。
闘病中で体がきつい中、渡さんはまき子さんの頼みを聞き入れる形で復帰した。いくら渡さんの決断に付いていく俊子さんでも“あんまりだ…”という思いはあったはずです」(映画関係者)
持病の肺気腫が悪化し、風邪をひくだけで命に危険が及ぶ状況だった頃の話である。それでも、自分の目の黒いうちに石原プロの看板をお返ししたいと、会社の清算についての陣頭指揮を執ってきた渡さんだったが、8月10日に帰らぬ人となってしまった。
「渡さんが自分の体調も顧みず事務所の運営に苦心する姿を、俊子さんはずっとそばで見てきた。一方のまき子さんは経営者としては名前だけで、亡き小林(正彦)専務や、渡さんにお任せでした。裕次郎さんのことは私がいちばん知っているという自負が原動力みたいな人でね。
裕次郎さんへの情愛ゆえだと思うけど、渡さんが方針を変えようとすると、NOとは言わないけど、よい感情を持っていない、そういう空気は常にあった。まき子さんと渡さんの関係も、すべてがうまくいっていたわけではなかったんです」(渡さんの知人男性)
そんな状況を知っていたからこそ俊子さんは、渡さんの密葬に石原プロ関係者を極力呼ばなかったのかもしれない。
「残された時間を家族のために使ってほしいと願っていた俊子さんは、せめて亡くなってからの時間だけでも『誰にも邪魔されたくない』と思ったのではないか。無言を貫いているまき子さんは、そんな俊子さんの考えを尊重したゆえの行動なのかもしれません。『静かに送ってほしい』というのは渡さんの遺志ですが、俊子さんの意志でもあるのです」(前出・知人男性)
裕次郎さんと渡さんの関係性はたびたび、太陽と月に例えられてきた。それぞれの引力に強く惹きつけられてきた2人の女性のあいだには、その強さだけの距離が開いているのかもしれない。
※女性セブン2020年9月10日号