毬子さんは妹の手を引いて、東京・荻窪にあった田河さんの自宅を、連絡もなしに訪ねて行った。当時、田河さんが連載していた漫画『のらくろ』は国民的な人気を誇っており、突然の訪問に、「先生はお忙しいのでお会いできません」と門前払いされる。町子さんは当時のことを自身のエッセイでこう振り返っている。
《予想どおりでした。だが待てよ、“ガールズ・ビイ・アンビシャス”こうなったら押しの一手です。「九州からはるばる出てきたんですから、ぜひぜひ」困ったお弟子さんは、ピンポン玉のように玄関と奥を往復したあげく、ついに書斎に通されました》
「そこで町子先生のスケッチブックを見た田河さんが、『いいよ、弟子にしましょう』と引き受けてくれた。絵だけでなく、町子先生の人となりも見てくれたのでしょうね。『明日からおいで』と、急転直下、弟子になったそうです」(川口さん)
大人気作家のもとで漫画を学び始めた町子さんはめきめきと頭角を現し、『少女倶楽部』10月号にデビュー作『狸の面』を発表する。かくして15才にして日本初の女性漫画家に。同号では「天才少女」との触れ込みでグラビアも飾り、華々しい門出となった。
その後、少女漫画を中心にいくつも連載を持つ売れっ子になるものの、日本は戦争への道をひた走る。物資不足で紙がなくなり、漫画の仕事も途絶えてしまう。町子さんが24才のときに一家は実家の残る福岡に疎開する。
ふたたびペンを奮い始めたのは、終戦後になってから。家庭菜園で農作物づくりに励んでいると、福岡の地元紙・西日本新聞社から発行される『夕刊フクニチ』から連載漫画を依頼され、1946年4月22日から『サザエさん』をスタートさせる。半年ほどのんびりと連載を続けていたある日、知人が全国紙の求人欄を持って駆け込んできた。そこには有名出版社の名でこう記されていた。
〈長谷川町子さん 仕事をたのみたく 至急れんらくたのみます〉
これを見た町子さんは、2度目の上京を決意する。その背中を押したのは、家族だった。貞子さんが有無を言わさず、福岡の家を売り払ったのだ。上京し、戦後で物資が不足する中、一家でやりくりする小さな出版社「姉妹社」を設立した。社長には、長女の毬子さんが就任した。