マッツを、いわゆるエンターテインメント、略して「エンタメ」と呼ばれるジャンルの書き手にしたのは、「いちばん権力に利用されそうな、ポピュリズムの先鋒になってしまいそうな立場の作家を書きたかったから」だと言う。
作家たちは、更生のために作文を書かされる。反抗心旺盛なマッツは、役人受けしそうな作文をでっちあげて恭順を装うが、一杯の冷たい水を飲むためには反抗心も揺らぎ、暴力をふるわれれば、ひとたまりもなく膝を屈してしまう。
SNSでも当たり前のことしか書けなくなっているのは変だ
「『作家はそういうものじゃない』と感想をくれた人もいましたけど、作家にだって俗物はいます。もしマッツが高潔な作家だったら、すぐ自殺してしまうんじゃないでしょうか。私の中には、北朝鮮や中国、香港などで行われている弾圧的なものへの怯えがあります。生理感覚としていやだな、と思う。前から興味を持っていろいろ関係資料を読んでいました」
役人、医者、収容者。療養所の中には、さまざまな立場の人間がいて、管理する側にも身分の差がある。暗闇の中で手探りするように、収容されている作家仲間の誰が敵で誰が味方か見極めようとしても、真実はなかなか見えてこない。
「ハンナ・アーレントが書いたように、普通の人々が弾圧に加担していくのが私はいちばん怖いと思っています。最近の、新型コロナウイルス下の自粛警察もちょっとそういうところがありますね。
正しさの押し付けも怖い。いまの芸能人はみんな、いつやり玉に挙げられるか、すごいストレスだって言います。SNSでも当たり前のことしか書けなくなっているのは何か変だと思う」
底のない地獄のような場所で、マッツは正気を保ち続けられるのか。療養所という名の作家収容所から脱出する日は、はたして来るのか。「いったん書き終えたあとに十数行書き加えた」と桐野さんが言うラストの重さは衝撃だ。
「このラスト、私の周りでの評判はすごく悪いですが(笑い)、今回の小説では絶望をとことん描こうと思っていたので加筆しました」