新たに形成された律令国家では、全国的な「戸籍」が初めて作られ、庶民一人ひとりが「男」か「女」で登録された。また天皇に仕える人々も、男性は「官人」、女性は「宮人」と分けられた。
突然、社会的、行政的なルールとなった性差は、時間をかけて社会に浸透していった。国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉市)の教授で、「性差〈ジェンダー〉の日本史」のプロジェクト代表を務める横山百合子さんは、こう話す。
「古代より日本は男と女を区別しない時代が長かったので、律令を導入してもすぐに男性優位の社会になったわけではありません。奈良時代には聖武天皇が『男女が並んで仕えるのが道理だ』との詔を発し、男女とも等しく奉仕することを求めました。実際のところ、宮人も朝廷で活動していましたし、地方には女性の豪族がいたこともわかっています。
しかし、時代を経るとともに徐々に社会の男性優位は進み、行政の場から女性が排除されていきました」(横山さん)
平安時代になると、女性は行政の表舞台から姿を消す。宮廷において一定以上の身分の女性は「御簾」の中に隠れることとなった。この時代の貴族社会における「女の幸せ」を著したのが女流作家の清少納言だ。
一条天皇の皇后、藤原定子に仕えた清少納言は『枕草子』の中で、「官位よりもすばらしいものがあるだろうか」と記している。男性は官位が上がるとともに社会的なステータスを得ることができたが、女性が高い官職につくのはまれだった。世間では安定した地位を持つ夫と裕福に暮らすことが「女の幸せ」というが、自分が産んだ姫君が皇后になることこそが最高の幸せではないかと清少納言は語った。
このように律令の導入により女性の幸せが「妻」「母」として得るものへと変化したことを展示プロジェクトの一員である東京大学史料編纂所の伴瀬明美准教授は指摘している。子供を産み家庭を守るという現代にもつながる「女の幸せ」の基本形は、1000年前にできたのかもしれない。
撮影/矢口和也
※女性セブン2020年11月19日号