バンド名は吉田が好きなペトゥラ・クラークのヒット曲『恋のダウンタウン』が由来だ。『小説 吉田拓郎 いつも見ていた広島〜ダウンタウンズ物語』(小学館)の著者で音楽評論家の田家秀樹さんが言う。
「ビートルズのような4人編成で、当時大学生の拓郎さんはギターとボーカルを担当。ほかの2人はバチェラーズでも一緒だったメンバーでした。うち1人がベースで、中学の同級生で銀行員。もう1人はギターで“広島商業開校以来の天才”と呼ばれた広島大生。4人目のメンバーは1才年下の腕利きのドラマーで、自動車会社に勤めていました」
1960年代の広島。戦争のにおいは土地の深くまでしみ込んでいる。若者は、東京に憧れを抱き、同時に反発を覚えた。楽器を抱えた若き日の吉田は、そういう時代の空気を目いっぱい吸い込み、たばこの煙と歌声とともに吐き出した。
バンドはいつの間にか広島で随一の知名度を誇るようになった。実力も誰にも負けない。女性ファンにモテた。
「愛する広島を『原爆を落とされたかわいそうな街』と見られることが拓郎さんには許せなかった。彼は広島をビートルズが生まれたリバプールのような音楽の街にしたいと願っていました」(当時の吉田を知る関係者)
吉田たちは若く、怖いもの知らずだった。演奏会場は楽器ショップのほかに、ビアガーデンやディスコクラブ。岩国の米軍キャンプでも米兵を相手にライブを行い、ビートルズやレイ・チャールズなどのカバー曲でうならせた。
ザ・ダウンタウンズは1967年、ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト中国地区大会に出場して優勝。しかし、岩国キャンプで演奏していたことが“侵略基地の慰問”だと批判され、全国大会出場の辞退に追い込まれた。
悔しかった。だけど、その思いをどこにぶつければいいのかわからず、メンバーは酒を飲みながら涙した。“売国奴”といわれのない批判も浴びた。仲間同士、殴り合いのけんかもした。だが、彼らを支えたのは「広島で音楽を奏でる誇り」だった。
翌1968年の大会。中国地区では再び1位になり、今度こそ全国大会へ。しかし、4位という結果に終わる。吉田が22才の秋だった。メンバーは目標を失い、活動は次第に減少していった。1969年、メンバーの結婚や就職を機に自然消滅。解散コンサートもなかった。
3人を残し、再び上京した吉田は1970年にデビューし、2年後に『結婚しようよ』が50万枚を超えるスマッシュヒット。1975年の静岡県つま恋のコンサートで7万5000人を動員し、「フォークのカリスマ」の地位に駆け上った──。