被害者の遺族(和子さん)と加害者の遺族(安田夫妻)は親交を深め続けた。
そして、彼らが「滂沱(ぼうだ)の涙」を流して謝罪する姿を見て、和子さんは初めて「辛い思いを抱いて五十年生きてきたのは私だけではなかった」という思いに至るのだ。それ以降、両者は親交を深めていき、交流は和子さんが亡くなるまで続いたという。
二・二六事件がなければ、和子さんと善三郎さんは出会うことはなかった。「本心では行きたくなかった」という和子さんが、軍人の娘として意を決して賢崇寺に行かなければ、その後の両者の交流もなかっただろう。修道院に入った理由を事件と結びつけられるのを否定していた和子さんだが、日々「赦し」と向き合う修道女の生活が、加害者遺族への赦しにもつながっただろうことは想像に難くない。そこには、いくつもの偶然が重なっている。
しかし、両者の“和解”は必然だったのではないか——二・二六の歴史を知れば知るほど、そう思えてくる。
善三郎さんは、和子さんから渡辺大将の墓所が多磨霊園にあると教わって以来、30年以上の長きにわたって墓参を続けてきた。葉山の自宅からだと、JRと西武線を乗り継いで片道2時間半以上かかる行程だが、錠太郎大将とすず夫人の命日に合わせて、年に2回ほど訪ねているという。
だが今は、新型コロナ禍の影響もあって、それもままならなくなっている。
「去年から渡辺大将のお墓にお参りできていません。それが心残りですが、もう少し暖かくなってコロナが落ち着いてきたら、また行ってこようと思っているんです」(善三郎さん)
二・二六事件から85年——。今なお贖罪は続いている。
*参考文献/渡辺和子・保阪正康(聞き手)「2・26事件 娘の八十年」(『文藝春秋』2016年3月号)、筒井清忠『敗者の日本史19 二・二六事件と青年将校』(吉川弘文館)、岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』(小学館)