蹶起部隊がクーデターを成し遂げるには、政府要人の身柄を押さえ、さらに天皇の支持を取り付ける必要があっただろう。先ごろ亡くなった作家の半藤一利氏が「宮城(皇居)占拠計画」について詳しく論じていたように、総勢1500人近い蹶起部隊のうち、皇居を占拠すべくまず桜田門にある警視庁制圧に動員されたのは400人の兵士たちだった。永田町の岡田首相殺害・官邸占拠に投じられた兵力は300人。そういう中で、安田・高橋両少尉は荻窪まで軍用トラックに乗り込み、30人の部隊で渡辺総監殺害を命じられたのだった。
渡辺襲撃だけが異彩を放つのは、それが陸軍内部の権力抗争や派閥争いと絡んでいるからだろう。
そもそも、蹶起部隊の青年将校たちも一枚岩ではなかったという説もある。中でも、渡辺邸を襲撃した安田・高橋両少尉らは、天皇陛下の「大権私議」に関わるような国家改造や政治改革までは意図していなかったとされる(筒井清忠・帝京大学教授の著書による)。そんな彼らだからこそ、荻窪の渡辺邸襲撃を任された可能性もある。
前出の『渡辺錠太郎伝』によれば、渡辺大将は青年将校らから「不逞」な天皇機関説を支持していると批判され、「天皇機関説の軍部に於ける本尊」(磯部の手記より)とまで見られていた。その理屈で言えば、渡辺邸を襲撃することは天皇陛下を守るための行動の一環であり、安田・高橋両少尉が否定していた国家改造や政治改革とは異なることになる。
だが、対する渡辺大将もまた、天皇中心の国体を維持しようと努めていた一人だった。もともと派閥争いとも無縁で、私心のない人物との評価も得ていた。「君側(くんそく)の奸」どころか、軍紀を乱す将兵らの下剋上(げこくじょう)的な風潮を戒め、軍人が政治に関わっていくことを否定していた。
だとすれば、“殺した側”と“殺された側”の確執とは、いったい何だったのか? なぜ両者は銃口を向け合わなければならなかったのか——。
「コロナで墓参できないのが心残り」
渡辺和子さんは、前述した賢崇寺での法要で、加害者側の遺族から頭を下げられる。それが、父を襲撃・殺害した安田少尉と高橋少尉の弟たち——安田善三郎さんと高橋治郎さんだった。