昭和の時代には圧倒的な魅力と存在感で他を寄せ付けなかった「最強軍団」がいた。横綱まで上り詰めた若貴兄弟(三代目若乃花、貴乃花)を筆頭に、大関・貴ノ浪、関脇の貴闘力、安芸乃島、豊ノ海などを育て上げ、相撲界で一大勢力を誇った藤島部屋。
厳しい稽古とガチンコ相撲で『藤島軍団』を築き上げたのは、「角界のプリンス」と呼ばれた元大関・貴ノ花だった。
細身の体ながら強靱な足腰の粘りで巨漢力士をなぎ倒し、端正なマスクで絶大な人気を誇ったが、ケガと内臓疾患に泣かされて横綱になれないまま1981年1月に現役を引退。
翌年、実兄である元横綱・初代若乃花の二子山部屋から独立し、内弟子の序二段9人、序ノ口3人を連れて東京・中野区に藤島部屋を興した。
43年間大相撲中継を担当した元NHKアナウンサーの杉山邦博氏が語る。
「兄であり、師匠でもあった初代若乃花は、自身にも弟子にも厳しい稽古を課した。“汗が出なくなるまで稽古する”と言われたほどで、親方となった貴ノ花も兄の教えを守った。当時、部屋で稽古を見ていた人はあまりの静寂と緊迫に、唾ひとつ飲み込めませんでした。出稽古にも行かず、弟子たちは他の部屋の力士たちと言葉すら交わしてはならないと厳しく指導されていた。勝負の世界に生きる孤高の集団だった」
当時の藤島部屋の稽古量はズバ抜けていた。他の部屋では三番稽古の途中で息が上がると“待った”をかけながら息を整えるが、藤島部屋は“待ったなし”で何十番も仕切り回数を重ねていく。
他の部屋の稽古は朝6時頃に始まり10時には終わるが、藤島部屋では昼まで続く。それでも力士たちはさらに早い時間から自主的な稽古に励んだ。
おかみさんとして藤島部屋を支えた藤田紀子さん(当時は花田憲子さん)はこう話す。
「みんな寝静まった深夜に稽古場から物音がして、見に行くと(入門直後の)光司(後の貴乃花)が四股を踏んでいたこともありました。部屋を開いた直後の親方(元・貴ノ花)は“まず心臓を鍛える”と、とにかく稽古の番数を増やしていましたが、やはり2人の兄弟は稽古の量は違っていましたね」