終戦後、早稲田を受験した頃の宮城さん。その後、世界的なテニスプレーヤーに(宮城さん提供)。
宮城淳さんは、東芝のエンジニアを父に持ち、東京・田園調布に生まれ育った。太平洋戦争は小学校4年の時に始まった。最初のうちは、焼夷弾が東の空に落ちていくのを見ても、遠くの花火を眺めるような気分だった。
恐怖を感じたのは、空襲が本格的になってきた1944年の冬から。渋谷や恵比寿といった住宅地まで空襲されるようになり、5月には焼夷弾の火が迫って隣の家まで燃えた。
その頃から電車が動かなくなり、田園調布から麻布の中学校まで自転車で通った。空襲の翌日は、ブスブスと焼け焦げて煙が上がる街道を自転車で駆け抜けての通学。道路脇には、マネキン人形のように黒焦げになった遺体が積み重ねられていた。
ある日、学校にいると警戒警報(空襲警報の一つ前段階の警報)が鳴り、生徒は自宅へ帰れと言われた。自転車で代官山のトンネルから出ると、目の前で2機の戦闘機が機銃砲を撃っている。パイロットの顔が見えるような距離だ。「死んだ」と思ったが、戦闘機はあっという間に去っていって命拾いした。
家の近くに爆弾が落とされ、直径10メートルほどの穴が、近所の地面に点々と空いていたこともあった。爆撃手がコンマ1秒ボタンを押すのが早かったら、自宅を直撃していて、今、自分はいなかったろう、と宮城さんは話す。
玉音放送を聴いたのは、学校の校庭。教室に戻ると、先生は悲憤慷慨して「仇討ちをしなくちゃいかん」と言っていたが、宮城さんは冷静だった。空襲で何度も街を焼かれ、物資もないことは子供ながらにわかっていた。
また、姉のフィアンセが海軍の兵隊で知見のある人だった。自宅に遊びに来た時に「日本はもう負けますよ。とても勝てるような状態じゃありません。早く負けたほうがいいんですよ」とこっそり話しているのも聞いていた。