千さんはある日、上官に呼び出され「待機命令」、特攻には行くなと言われる。「嫌です」と拒否し、「私は絶対に出ます。一緒に行かせてください」と、3回頼みに行ったが認められなかった。明確な理由はわからないが、敗戦が見えていたため、日本文化を継承する者として行かせるわけにはいかなかったのだろう。
玉音放送は、松山の航空隊で訓練をしているときに聴いた。何を言われたのか聴き取れず、部隊は大混乱だった。敗戦と知ると、「これから飛ぼう」と仲間を集めようとする者、天皇陛下に申し訳ないと軍刀を抜いて割腹しようとする者までいた。そんな様子を千さんは冷静に眺めていた。
* * *
海軍兵学校在学中の林さん(右)。実家の長野に帰った時に親友と(林さん提供)。
林四郎さんは、17才から2年間、広島県の離島・江田島にある海軍兵学校(海軍の指揮官となる将校を養成する学校)に通っていた。エリート校に入学したのは、愛国心からではない。
「徴兵されて一兵卒で叩き上げられるのは嫌だ、って安易に考えたわけです。みんながお国のために命をなげうって戦おうとしていた時代に、私は非国民だったんですよ」と文学少年だった林さんは話す。
この兵学校では軍事に関する勉強は全くなく、英語、数学、国語といった普通の授業を受けていた。当時の校長・井上成美(しげよし)さんは、「英語を敵性語などと言っていては、世界で活躍できない」と考える視野の広い人だった。敗戦が見えていた時期、将来の日本社会を背負って立つ優秀な若者を育てようとしていたのだろう。
航空隊で訓練した時は、夜になると酔っ払った先輩の少尉や大尉が軍刀を持って自習室にやって来て、「俺たちは今から飛び込むぞ!」「必ず貴様たちがあとに続いて来ることを待っているぞ」と言って回った。そして数日後には、黒板にその人たちの名前と「戦死」と書き出されていた。
1945年8月6日、広島の江田島で練兵場に整列するため、カバンに教科書を詰めて生徒館の建物を出た。すると目の前でフラッシュが焚かれたような激しい閃光が走った。数秒後に強烈な熱風が吹いてきて、学生たちはなぎ倒された。
誰かが「見ろ!」と指差したその先の空に、教科書などにも写真がよく出ているあのキノコ雲がすごい勢いで上がっていく。実際は、キラキラ輝いている光が雲の中にいっぱい散らばっていて、何かわからないが綺麗な光景と思ったという。新型爆弾だと知ったのは後になってからだ。爆心地から20キロメートルしか離れていなかった。
林さんは船に乗る乗艦実習などいろいろな施設で訓練を行ったが、1945年1月から6月までいた岩国の航空隊の飛行場には飛行機が1機もなかった。これではB29が来ても迎撃できない。寝る前には仲間たちと「戦闘機がないのにどうやって戦争するんだろう」と小声で話していた。
そんな状況を見ていたから、8月15日、玉音放送を聴いて終戦が知らされると「ああ戦争が終わったんだな、万歳」と林さんは思ったという。