『LOVE(抱きしめたい)』では、毎回雨を降らして、ずぶ濡れになる演出の中、熱唱していた
西:ふだんは化粧品やアクセサリーの用意と、衣装替えを手伝うのが、私のメインの役割でしたね。『憎みきれないろくでなし』のときは、カミソリのアクセサリーとか、たくさんあったのですが、『ザ・ベストテン』で曲が複数ランクインすると衣装ケースを2つ持って行ったりしましたね。『LOVE(抱きしめたい)』のときは、雨の演出で革のコートをスプレーでズブ濡れにして、手に包帯を巻いて、その上に赤チンをつけるなど曲ごとに決め事が多くありました。
國:当時、各局での歌番組は大変でしたか?
西:そうですね。収録がある日は、朝、世田谷の自宅に車で迎えに行っていました。家に着くと、奥様(当時、伊藤エミさん)が玄関先に用意してくださった衣装や化粧品、アクセサリーなどを積んで、沢田さんを乗せ、テレビ局に向かうんです。
当時のテレビ局は個室があるわけではなく、大部屋に板張りの化粧コーナーがあるだけ。そこに化粧道具などを用意しておくと、沢田さんが来て自分で化粧をしてアクセサリーをつける。終わったら「すぐ片付けて。ほかの人が使うから」と、偉ぶらないところが沢田さんらしかった。
國:驕らない、そういうところはジュリーよね。
西:はい。年下や新人相手にも敬語に近い言葉でいつも話すし、男気があって筋を通し、好き嫌いなく、物を大切にする人ですね。
オフは『ジュリーズ』で草野球に興じた
國:コンサートツアーとテレビの歌番組で、当時忙しかったんじゃない?
西:あの頃のコンサートツアーって昼夜2回公演でした。全国ツアーで行けなかった近場は、土日にコンサートを組んでいました。ただ、専属デザイナーだった早川タケジさんの衣装は繊細で、地方でストッキングに刺繍やスパンコールなどがついた衣装がほつれたりすると、ぼくがテグスや針金で直していました。最初は緊張もあって、手の震えが止まりませんでしたね。
國:当時の目が回るような忙しさの中で、記憶に残る思い出はありますか?
西:北海道のツアーから帰って来たときのことですね。「最近食べてないから、しゃぶしゃぶでも行こう」と沢田さんが赤坂の店に連れて行ってくれた。それが初しゃぶしゃぶだったので、いい思い出になっています。それと、いつも助手席に乗る沢田さんが、『ダーリング』発売の直後に一度だけ後部座席に乗り、会話をしなかったことがありましたね。
それは沢田さんのお母さんが亡くなった日だったんです。山梨でコンサートを終えて帰京後、運転手と車で京都の実家へ直行。仕事があったので朝には東京に戻り、葬儀は数日後でした。
國:ジュリーは野球少年で、スターになってからも草野球を続けていたから、守くんが採用されたのは、野球のおかげだったりして……。