沢田研二一覧

【沢田研二】に関するニュースを集めたページです。

日本中がワクワクした『夜ヒット』の沢田研二 ド派手パラシュート衣装の秘話
日本中がワクワクした『夜ヒット』の沢田研二 ド派手パラシュート衣装の秘話
 1968年11月から1990年10月まで22年にわたり放送された歌番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)。毎回、生放送で多くの歌手が楽曲を披露する『夜ヒット』では、テレビ史に刻まれるべき、衝撃的な“衣装”も登場した。なかでも、数々のインパクトのある衣装で登場したのが、ジュリーこと沢田研二だ。 ジュリーの衣装担当のデザイナーの早川タケジさんは、これまで手掛けた「会心作」として、『カサブランカ・ダンディ』や『サムライ』の衣装とともに『TOKIO』のパラシュート衣装を挙げている。番組の立ち上げから参加し、1977〜1987年にプロデューサー兼総合演出を担当した疋田拓さんは、こう話す。「出演が決まった歌手には、スタッフが必ず話を聞きに行き、近況などの情報を得てから構成を決めます。どのような衣装か、歌詞も曲のイメージもしっかり聞いたうえで、どんなセットにし、どんな演出にするのかをテレビ局側が決めます。歌手からの要望をそのまま受け入れることはありませんでしたが、曲をより魅力的に視聴者に届けるために私たちが誠心誠意考えて作り上げるセットは、歌手からの信頼を得ていて、本番当日に見るのを楽しみにしてもらっていました」(テレビプロデューサー・疋田拓さん・以下同) そんなスタッフ陣が驚いたのがこの衣装。横幅にして約12m、高さ約7m、奥行きが約6mは必要となるパラシュートは、衣装というよりセットといってもいいものだった。「これほど巨大なものを持ち込んだのは、沢田さんが最初で最後だったと思います(笑い)。これを生かしながらどのように演出するのかを考えるのは、難しいけれど楽しかった」 夜ヒットでは同曲を4回披露しているが、ドライアイスを床に這わせて雲に見立て、その上を浮遊しているように見せたり、パラシュートの電飾が目立つよう、照明を落として暗闇にするなど、毎回工夫を凝らしたという。 この時代のジュリーは、「声、容姿、表現力、歌唱力、そのすべてが時代を引き連れていた。沢田研二を中心に歌謡界が回っていた」と言うのは、小説家の小路幸也さんだ。「彼は希代のパフォーマーであり、エンターテイナー。当時の一流の作詞家・作曲家が彼のために作った歌を、彼しか表現できない世界観で歌い上げ、多くの人を魅了したんです。数多くのヒット曲がありますが、『TOKIO』の衣装と仕掛けに度肝を抜かれました。 それまでも、『サムライ』には短編映画を観たような感覚を覚えたし、『カサブランカ・ダンディ』でジーンズのボタンを外してはくセンスなどなど、彼の魅力を挙げたら切りがない。日本中が彼の新しい曲に、衣装に、パフォーマンスにワクワクしていた。その最たるものが『夜のヒットスタジオ』だったと思います」(小路さん・以下同) さらに、ジュリーの曲は、「聴く」だけでなく「映像を観る」ことでこそ真価がわかると力説する。作りこまれたミュージックビデオではなく、一度限りのセットのもと、生バンドの演奏でのパフォーマンスには、独特の緊張感があるからだ。「沢田研二は、ビジュアル的にかっこよく、セクシーで中性的な魅力もある。本当に美しく、アーティストとしての実力も備えた、別格のスーパースター。映像では、その時代の空気感も味わうことができます。画面に映っていないスタッフたちの熱量までもが伝わってきます。だから、『沢田研二を観ろ』と言いたい」 いまから40年ほど前のパフォーマンスながら、日本のテレビ界・歌謡界が元気だった時代のジュリーは、色あせるどころか、輝いている。懐かしむだけでなく、若い世代にもぜひとも見てほしい。【プロフィール】小説家・小路幸也さん/学生時代に仲間とバンドを組んでミュージシャンを目指すが、広告制作会社勤務を経て小説家に。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ(集英社)などがある。最新刊は『花咲小路二丁目の寫眞館』(ポプラ社)。テレビプロデューサー・疋田拓さん/『夜ヒット』の立ち上げから番組に参加し、1977〜1987年にプロデューサーを務めた“ミスター夜ヒット”。令和3年度文化庁長官表彰。現在は番組制作会社『プロデュース&ディレクション』代表。取材・文/山下和恵 イラスト/諏岸 撮影/浅野剛 写真/女性セブン写真部※女性セブン2022年2月17・24日号
2022.02.12 07:00
女性セブン
夜ヒット
沢田研二が『夜ヒット』で見せた数々の伝説 50枚の畳の上で『サムライ』熱唱
 1968年11月から1990年10月まで22年にわたり放送された、伝説的な音楽番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)。番組の評価が高まるにつれ、この『夜ヒット』で新曲を発表する歌手が増えてきた。新曲発売のタイミングで同番組にキャスティングされることが、歌手にとってステータスとなった。 ジュリーこと沢田研二も、ほぼ毎回、レコード発売前に『夜ヒット』で新曲を披露していた。「衣装も含めての初披露。オープニングメドレーではスーツなどの衣装が多く、番組中に、歌う曲の衣装にチェンジするお手伝いをしましたが、間に合うかハラハラしていました」と語るのは、1978年2月から1年間、ジュリーの付き人を務めたタンゴ歌手の西澤守さんだ。「生放送のスタジオから楽屋が離れていたので、そこまで行く時間がない。いつもスタジオの隅に姿見を置いて、着替えていました。『LOVE(抱きしめたい)』のときは雨の演出で、革のコートをスプレーでずぶ濡れにし、手に包帯を巻いて、その上に赤チンをつけるなど、決まりごとが多かったんです。濡れて重くなったコートを着て歌い、さらに2番あたりからどしゃ降りの雨になりますから、歌っているうちにコートがさらに重くなって大変だったと思います」(西澤さん) 夜ヒットのジュリーといえば“伝説のセット”がある。1978年1月30日放送の『サムライ』歌唱時の、50枚もの畳をスタジオ中に敷き詰めたもの(通称「畳サムライ」)だ。 デビュー以来、1984年までジュリーの楽曲をプロデュースした木崎賢治さんは、その衝撃をいまも鮮明に覚えているという。「早川タケジさんの衣装に注目して歌に聴き入っている間に、音も立てずに整然と50枚もの畳を敷き詰めるスタッフの手際のよさ、それを映さずにさまざまな角度から沢田を追うカメラワーク、一面に敷かれた畳の衝撃、そして最後に刀に反射するライト—すべてがすごかった」(木崎さん) このジュリーの圧倒的な歌唱パフォーマンスに、スタジオに居合わせたスタッフも他の出演者たちも感動し、言葉をしばし失っていたという。 歌い終わりからエンディングまでの間に、司会の芳村真理が、50枚の畳が敷かれていたことを明かし、同じく司会の井上順が畳に上がり、ジュリーのポーズを真似たところで番組が終了した。このシーンはファンの間で「神回」と呼ばれ、同年11月6日放送の『夜のヒットスタジオ11周年記念企画』でも「名場面」として取り上げられた。 当時の感動を芳村はこのように述懐している。《やっぱり、ジュリーのオーラは特別なのよ、最初から違ってた》(『週刊朝日』2020年8月7日号)《ジュリーはお高くとまっているわけでもないのだけど、ふっと立ってるだけで、みんなが注目しちゃう。(中略)和田アキ子さんが手にびっしょり汗をかいて全然しゃべらないから『どうしたの?』と聞いたら、『ジュリーがかっこよすぎる』って(笑)》(『家庭画報』2018年1月号) このときの衣装はスパンコールで唐獅子牡丹を貼り付けたシースルーの衣装を身に着けた上に軍服をまとったもので、とても強烈なインパクトがあった。衣装を担当したデザイナーの早川タケジさんは「無我夢中で面白いと思うことを追求した結果」だと言い、《軍服、楯の会の三島由紀夫、(高倉)健さんの唐獅子牡丹……こんなアブない組み合わせができたのは我ながら上出来でした》(『週刊朝日』2021年11月5日号)と語っている。『カサブランカ・ダンディ』の生成りのジャケットは仮縫いで使用したシーチングの生地で作ったものをそのまま使用した「不良アイビー」のイメージで、ジーンズにウイスキーの小瓶を差し込んでいた。「口に含んで霧吹きするパフォーマンスがありましたが、本物のウイスキーだったので、スタジオ中にアルコールのにおいが一気にブワッと広がったのを覚えています(笑い)」(前出・西澤さん) 帽子を斜めにかぶり、右耳の間に花が差し込まれていたが、これは生花で作られており、西澤さんが針金などを使って毎回加工していたという。 ファンの間で「金キャミ」と語り継がれているのは、『さよならをいう気もない』(1977年1月10日)の衣装。歌唱前のトークでは金色のジャケットを着ているが、イントロが流れる前にパッと脱ぎ捨て、キャミソール姿に。髪が風になびき、肩ひもがはらりと落ちる様子にファンはテレビの前で歓声を上げながら見ていたという。「『夜ヒット』でのジュリーは、『LOVE(抱きしめたい)』のように雨の演出が多かったですが、『指』(1985年11月13日)では滝のような雨に打たれ、深い池の中で歌ったり、モデルの山口小夜子さん(享年57)と扇子で隠したキスシーンがあった『ヴォラーレ』(1986年6月11日)も、彼ならではの世界観でした」(ジュリーファン歴54年の國府田公子さん)『女神』(1986年10月22日)では、左胸に乳房がついている革のジャケットを羽織り、それをなでるしぐさ、喘ぎ声といった、退廃的なパフォーマンスも印象深かった。【プロフィール】タンゴ歌手・西澤守さん /1978年2月から1年間ジュリーの付き人を務めた後、1980年に歌手デビュー。NHKの朝ドラ『なっちゃんの写真館』に出演し、俳優としても活躍、現在はタンゴ歌手として活動している。音楽プロデューサー・木崎賢治さん/渡辺音楽出版で、沢田研二、吉川晃司らの制作を手掛けた後に独立。その後、槇原敬之、BUNP OF CHICKENなどをプロデュースし、数多くのヒット曲を生み出す。著書に『プロデュースの基本』(集英社インターナショナル)。取材・文/山下和恵 イラスト/諏岸 写真/女性セブン写真部※女性セブン2022年2月17・24日号
2022.02.11 07:00
女性セブン
沢田研二、写真集でトラブル ホームページから突然告知が消え、発売延期
沢田研二、写真集でトラブル ホームページから突然告知が消え、発売延期
 一世を風靡したバンド「ザ・タイガース」を1971年に解散後、ソロ活動を始めた沢田研二(73才)。センセーショナルな衣装を用意し彼の人気をサポートしたのが、盟友である画家だった。今春、伝説のショットを収めた写真集を彼が発売するというが、ファンは複雑な思いを抱えている。 その告知がこつ然と消えたのは、昨年12月中旬のことだった。沢田研二のオフィシャルホームページから、写真集の発売に関する情報が、突然削除されたのだ。『JULIE by TAKEJI HAYAKAWA─早川タケジによる沢田研二』──当初は、2021年中に発売される予定だったこの書籍は、長年にわたり沢田の衣装やアートディレクションを担当し、画家としても注目を集める早川タケジ氏(74才)の作品をまとめたものだ。 出版元の「株式会社スローガン」のホームページでは、仮予約が始まっているものの、「掲載内容とページ数の大幅な追加に伴い、発売日/価格の確定にもう少々お時間をいただかねばならない状況」と説明されている。1970年代から沢田を応援しつづけてきたという女性ファンは、困惑した表情で語る。「昨年の秋にジュリーのホームページに告知が載ったときは、約20年ぶりの写真集発売に歓喜しました。でも、その後、告知が消えたことで私たちファンは騒然としています。いまに至るまでジュリーサイドからは何の説明もありません。このまま発売されないという最悪の事態まで想像してしまって……」 ファンが待ち望むのも無理はない。早川氏は、スター・沢田研二の世界観を作り上げた唯一無二の人物だからだ。 沢田は1967年に「ザ・タイガース」のボーカルとしてデビュー。1971年にバンドを解散すると、ソロ活動を始動した。その後、1973年に首にかけたファーを揺らしながら歌う『危険なふたり』で、初のオリコン1位を獲得。その衣装を手がけた人物こそ早川氏だった。この曲で沢田は幅広い年齢層の女性を虜にした。 ドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年)では、樹木希林さん(享年75)が演じるおばあちゃんが沢田のポスターに向かって、「ジュリ〜!」と身をよじって叫ぶシーンも登場。このポスタービジュアルを手がけたのも早川氏だ。 彼は一躍、スタイリストとしてカリスマ的存在に。沢田のほか、キャンディーズや山本リンダ(70才)、荻野目洋子(53才)など人気歌手のスタイリングを次々と担当した。 沢田の衣装では、ラメやスパンコールのあしらわれたシースルーのコスチュームにドイツの軍服風の衣装を合わせた『サムライ』(1978年)や、電飾をちりばめたミリタリールックにパラシュートを背負った『TOKIO』(1980年)など、度肝を抜く衣装を考案。沢田の中性的なルックスと、早川氏の前衛的な衣装で作り出される世界観に多くの人が魅了された。 過去には、沢田の写真も多く収録された作品集『Paradis,Paradis』も発売されているが、現在は絶版となっており、中古品の価格は10万円を超える。長年、ファンは彼らの作品を見たくても見ることができない状況だったのだ。 さらに、今回の写真集には、別冊という形で早川氏が沢田との関係について綴った文章も収められるという。「沢田さんと早川さんは特別な信頼関係で結ばれていた」と語るのは、当時を知る関係者だ。「沢田さんがカリスマ的存在になったのは、彼の魅力を最大限に引き出す早川さんの天才的なスタイリングがあったからこそ。沢田さんも早川さんのセンスを高く評価していて、衣装合わせが長時間に及んでも、文句を言うようなことはありませんでした。 連れ立って飲み歩くことはほとんどないようでしたが、2人の間には、多くを語らずとも理解し合えるような信頼関係があったのだと思います。沢田さんは早川さんの描くイメージ絵画を見るだけで、どんな衣装で、自分がどんな魅せ方をすればいいか、一瞬で理解しているようでした」(当時を知る関係者) 「遅れている理由、全然わかりません」 信頼関係で結ばれている2人の作品で、なぜ頓挫が囁かれるのだろうか。芸能関係者はこう語る。「沢田さんの気持ちが変わって、中止となった前例があるからでしょう。2018年10月のコンサートでは開演1時間前になって、客席が埋まっていないことを理由に急遽、公演が中止になりました。ファンが出版中止の可能性を考えてしまうのも無理はありませんよ」 さらに、コロナ禍での決断も、ファンが不安視する要因に。「2020年末、ジュリーはファンクラブを閉鎖したんです。ホームページに突然、新型コロナの収束が見えないとして『令和2年12月26日をもってファンクラブを解散する』と書かれた文章が発表されて……。50年近くにわたって、彼の応援が心の支えだったので呆然としました」(前出・ファン) さらに、昨年3月には個人事務所「株式会社ココロ」を閉鎖。テレビ制作関係者や前事務所社長との間で、連絡がとれない状況であることが報じられた。「ホームページから写真集の情報を削除するというのはただ事ではありません。編集作業の進行について“勝手にしやがって!”と言われかねないトラブルがあったとしか思えない」(前出・芸能関係者) 制作にかかわる関係者もいまだ詳細を把握できておらず、出版間際という段階ではないようだ。ホームページで公開されている表紙候補の写真を撮影したカメラマンの横木安良夫氏はこう説明した。「出版時期や、遅れている理由は全然わかりません。使用許可の連絡もまだ来ていないんですよ」 肝心の早川氏に進行状況を聞いたが、険しい表情を浮かべて多くを語らず、事務所のドアをピシャリと閉めた。沢田をはじめ、関係者は写真集の進行について沈黙をつらぬいている。このまま写真集は幻となってしまうのだろうか。書籍の編集を担当するスローガン代表の熊谷朋哉氏に話を聞いたところ、発売日の変更はあくまで「掲載内容とページ数の大幅な追加」が理由だとし、「発売はする」と断言。横木氏への連絡はすでにしているとし、内容についても自信をのぞかせた。「沢田さんと早川さんの作り上げた表現は、100年でも200年でも歴史に残るものだと思っています。2か月、3か月、遅れてしまうかもしれませんが、最高のものを早川さんも私も目指しています」 今年は、沢田にとってデビュー55周年にあたる記念すべき年。写真集のページをめくりながら「待ったかいがあった」と思える日が来ることを、ファンは心から待ち望んでいる。※女性セブン2022年2月3日号
2022.01.21 07:00
女性セブン
『ザ・ベストテン』、楽曲の魅力を最大限に引き出した「一期一会のセット」
『ザ・ベストテン』、楽曲の魅力を最大限に引き出した「一期一会のセット」
 1978年から1989年にかけて、伝説の音楽番組が放送されていた。毎週、番組で集計したヒット曲ランキングを紹介し、歌手たちが生で歌を披露する、TBS系の『ザ・ベストテン』だ。1981年9月には番組史上最高となる視聴率41.9%を記録している。『ザ・ベストテン』が始まった1978年は、NHK紅白歌合戦でトリを飾ったのが沢田研二(73才)と山口百恵。歌謡曲が全盛期を迎える予兆があった。同番組で美術デザイナーを務めた三原康博さん(84才)は、こう話す。「あの頃、阿久悠が沢田研二の歌を作詞し、阿木耀子が山口百恵を、松本隆が松田聖子を、という感じで毎回いろんな曲が世に出てきた。それを毎週受け止めて解釈し、歌手の衣装には触らないけれど、毎回違う美術セットで新しい演出を考えたのです」 暗黙のうちに、番組美術制作者と歌い手・作詞家・作曲家の間に、いい緊張感が生まれていた。質の高い美術セットが、この番組の人気を支えた。 では、当時の『ザ・ベストテン』を彩った“名セット”を紹介する。●山口百恵『美・サイレント』 1979年3月22日放送で6位の『美・サイレント』。セットは顔が動く仕組みで、百恵はスリットの入ったスカートで登場。「山口百恵はどう撮っても"絵になる人"でした」(三原さん・以下同)。●小泉今日子『なんてったってアイドル』  1985年12月5日の初登場8位から、4週目に1位を獲得。3位だった1986年1月9日放送のセット模型。「ラスベガスなどにある看板をイメージしました。このセットはぼくの中でも代表作だと思っています」。●ピンク・レディー『UFO』 番組初回(1978年1月19日放送)の1位がこの曲。3週連続1位を記録。初回ではケイ(増田恵子、64才)が大ファンだった故・田村正和さんがお祝いに駆けつけたが、ケイ本人は「覚えていない」という。巨大な手が上下するセット。●平尾昌晃・畑中葉子『カナダからの手紙』 デュエット・ソングの定番。1978年2月23日の初登場10位から、最高順位は5位。手紙をイメージした美術セットや、長距離恋愛というシチュエーションに合わせて、2人が別々の場所で歌うこともあった。●中森明菜『ミ・アモーレ』 8週連続で3位以内(1位1回)をキープした明菜の11枚目のシングル曲。1985年4月4日放送のセット模型。「この歌って、本当にいい歌なんですよ。だから自分も乗って製作し、非常によいものができました」。●渡辺真知子『迷い道』 1977年11月に発売された渡辺真知子(65才)のデビュー曲。1978年3月16日の初登場9位から、最高順位は6位。『迷い道』をイメージしたセットのデザイン画。同年6月には『かもめが翔んだ日』もランクイン。●沢田研二『カサブランカ・ダンディ』 1979年2月22日、初登場5位。3月8日放送で1位を獲得したほか、11週連続ランクイン。アメリカ国旗と自由の女神をイメージしたセットのデザイン画。取材・文/北武司 セットデザイン/三原康博※女性セブン2022年1月20・27日号
2022.01.17 07:00
女性セブン
沢田研二、ソロ50周年 真のエポックは還暦記念の6時間半ライブ
沢田研二、ソロ50周年 真のエポックは還暦記念の6時間半ライブ
 1971年(昭和46年)からソロとなり、今年50周年を迎えた“ジュリー”こと沢田研二(73才)。今年5~6月に行われた記念ライブのチケットは即完売し、9〜11月には追加公演も発表された。昨年亡くなった志村けんさん(享年70)の代役を引き受けた映画『キネマの神様』(公開中)も話題だ。 これまでのキャリアの中で、何度かの転機があったジュリー。1985年には、デビュー以来、在籍していた渡辺プロダクションから独立し、個人事務所を立ち上げた。レコード会社も『ポリドール』から『東芝EMI』に移籍し、《変革期》を迎える。 この時期のジュリーに魅了されたのが、音楽評論家のスージー鈴木さんだ。「いま思い出すと、私がなんとなく沢田研二のことが気になり始めたのが、1985年。特に1970年代までは好きも嫌いもなく、ヒット曲を連発しているナンバーワンの人というイメージだけでした。ところが独立以降の彼は、その座から外れるわけです。でも、そのナンバーワンという色メガネを外したら非常に男気のある、かっこいい生き方をしている人だとわかり、むしろ惹かれていきました」(スージーさん) また、ダイアモンド☆ユカイも、この時期のジュリーに変化を感じたという。「その頃から、沢田さんは芝居を積極的にやるようになった。歌も芝居がかった感じになり、別の路線に変わってきた感じでしたね。 いつだったか、エディット・ピアフを歌うコンサートがあって、そこに沢田さんが出ていて驚いたことがあります。  いろんなゲストが出ている中で、沢田さんは歌もうまいし、個性的でどの人より目立っていた。エディット・ピアフの歌も沢田さんの世界にしてしまっていて、やっぱりこの人、スゲーって思いました」(ユカイ)真のエポックは“人間60年・ジュリー祭り” 確かに1985年以降、以前のようなメガヒット曲に恵まれることはなかったが、『CO-CoLO(こころ)』や『JAZZ MASTER』などの新バンドを結成し、アルバム制作のセルフ・プロデュースも宣言。俳優としても数多くの映画やドラマに出演するなど、活動の場を広げていく。「1985年が変革期であるのは間違いないのですが、本当にエポックとなるのは、2008年に行われた還暦記念のコンサート“人間60年・ジュリー祭り”だと思うんです。約6時間半をかけて80曲を歌い切るという、とんでもないコンサートでした。見に行きましたが、本当に感激しました。ジュリーはいまでもそうですけど、声が全然衰えない。怪物、化け物ですね(笑い)」(スージーさん) 同じミュージシャンであるダイアモンド☆ユカイも、ジュリーの声に魅了されたと語る。「1986年に歌手デビューしてから、沢田さんのコンサートには数回ほどしか行けない時期もありましたが、久しぶりに行った武道館のコンサートで、めちゃくちゃ声が出ていて驚きました。全盛期より声が出ているんじゃないかというくらい、武道館中に声が響いていた。その頃の沢田さんは、少し太っていたんですけど結構動き回っていて、本当にすごいなと。そして、世間の声を気にせず自分の世界を自由奔放に歌うその姿は、まるで日本のボブ・ディランのようだなと思いました」(ユカイ)忖度なしのメッセージを歌に込め、発信 今年73才を迎えた沢田研二は、《円熟期》に入っても、その活動は衰えることがない。 特筆すべきは、沢田研二のバックバンド『エキゾティクス』や『鉄人バンド』などで活動をともにした、ギタリストの柴山和彦(68才)と2人だけで毎年行っているライブツアーだ。 開演直前のドタキャン事件で話題になった2018年の『古希記念ライブツアー』からこのスタイルとなり、今年の『沢田研二2021 ソロ活動50周年ライブ「BALLADE」』でも、各地を回っている。そのコンサートの印象をスージー鈴木さんは次のように語る。「東京国際フォーラムという大きなホールでも、演奏はギター一本。本当に逃げも隠れもできないような簡素な編成で、2時間を歌い切る、沢田研二は見事です。特にコード進行を変えてアレンジした『TOKIO』は、コロナ禍の東京というのを表現している感じで、味わい深かったですね」 9月からは、その追加公演『BALLADE』(11月3日まで)が開催予定だ。 そしてもう1つ、忘れてはいけないのが映画『キネマの神様』。この作品では、久々に俳優・ジュリーの姿が拝めると、話題だ。 かつて、志村けんさんとジュリーは、『8時だョ!全員集合』(TBS系)でスターと付き人のコントをよくやっていた。その縁で、志村さんが熱望した役柄の代役をジュリーが引き受けたといわれているが、人との縁を大切にするところもジュリーの魅力のひとつだ。今年、50周年という節目を迎え、さらにどんな世界を見せてくれるのか、ジュリーから目が離せそうにない。【プロフィール】スージー鈴木/音楽評論家。1966年生まれ、大阪府東大阪市出身。野球評論家、小説家、ラジオでも活躍。著書多数。ダイアモンド☆ユカイ/ミュージシャン。1962年生まれ、東京都田無市出身。『RED WARRIORS』のボーカルとしてデビュー。俳優、声優、タレントとしても活躍中。取材・文/北武司 写真/女性セブン写真部 写真提供/國府田公子※女性セブン2021年9月2日号
2021.08.25 11:00
女性セブン
人間ジュリーの素顔 筋金入りファンと元付き人が語る70年代後半の沢田研二
人間ジュリーの素顔 筋金入りファンと元付き人が語る70年代後半の沢田研二
 今年でソロデビュー50周年となった“ジュリー”こと沢田研二(73才)。今年5~6月に行われた記念ライブのチケットは即完売し、9~11月の追加公演も発表され好評だ。さらに、昨年亡くなった志村けんさん(享年70)の代役を引き受けた映画『キネマの神様』(公開中)も話題で、73才を迎えたいまも、その人気は衰えない。 そんなジュリーは、1977年に『勝手にしやがれ』で日本レコード大賞を受賞。ビジュアル重視の楽曲で《全盛期》に入ろうとしていた。 金色のキャミソールを着て歌った『さよならをいう気もない』、軍服姿で歌う『サムライ』、血染めの包帯をした『LOVE(抱きしめたい)』、『カサブランカ・ダンディ』では、ウイスキーを口に含んで吹く姿に釘付けになったものだが、パラシュートを背負って歌う『TOKIO』は、圧巻。テレビにも映えた。 折しも『ザ・ベストテン』(TBS系)が始まった1978年には、『輝く! 日本レコード大賞』の2連覇をジュリーは目指していたという。 その年の2月にボーヤ(付き人)となった西澤守さんと50年来のファンで『沢田研二大研究』(青弓社)の著者である國府田公子(こおだ・きみこ)さんに、当時についてふり返ってもらった。 * * *歌番組とコンサートに明け暮れた日々國府田さん(以下、國):西澤さんは当時のファンの間では“守くん”と呼ばれ、原田真二をシャープにしたような感じでした。スリムで長髪で、かっこよかったですね。西澤さん(以下、西):ありがとうございます。地方でぼくは沢田さんと間違われて、影武者気分だったのを思い出します(笑い)。國:1978年2月から付き人というと、曲は何から?西:ちょうど『サムライ』を発表した頃です。そこから『ダーリング』『ヤマトより愛をこめて』『LOVE(抱きしめたい)』『カサブランカ・ダンディ』とやりましたね。國:1978年のコンサートでは、上半身裸のジュリーが体に金粉を纏(まと)っていたでしょ?西:沢田さんの肌にバラの絵の大きなスタンプを青インクで押して、その花びら部分に綿棒で赤インクをつけながら1時間くらいかけてバラの花びらを描いたんですよ。アンコールでは、舞台の袖でぼくともう1人が上半身裸の沢田さんに金粉を塗りました。國:えっ! 手で塗ってたの!? その手になりたかったわ~(笑い)。西:ふだんは化粧品やアクセサリーの用意と、衣装替えを手伝うのが、私のメインの役割でしたね。『憎みきれないろくでなし』のときは、カミソリのアクセサリーとか、たくさんあったのですが、『ザ・ベストテン』で曲が複数ランクインすると衣装ケースを2つ持って行ったりしましたね。『LOVE(抱きしめたい)』のときは、雨の演出で革のコートをスプレーでズブ濡れにして、手に包帯を巻いて、その上に赤チンをつけるなど曲ごとに決め事が多くありました。國:当時、各局での歌番組は大変でしたか?西:そうですね。収録がある日は、朝、世田谷の自宅に車で迎えに行っていました。家に着くと、奥様(当時、伊藤エミさん)が玄関先に用意してくださった衣装や化粧品、アクセサリーなどを積んで、沢田さんを乗せ、テレビ局に向かうんです。 当時のテレビ局は個室があるわけではなく、大部屋に板張りの化粧コーナーがあるだけ。そこに化粧道具などを用意しておくと、沢田さんが来て自分で化粧をしてアクセサリーをつける。終わったら「すぐ片付けて。ほかの人が使うから」と、偉ぶらないところが沢田さんらしかった。國:驕らない、そういうところはジュリーよね。西:はい。年下や新人相手にも敬語に近い言葉でいつも話すし、男気があって筋を通し、好き嫌いなく、物を大切にする人ですね。オフは『ジュリーズ』で草野球に興じた國:コンサートツアーとテレビの歌番組で、当時忙しかったんじゃない?西:あの頃のコンサートツアーって昼夜2回公演でした。全国ツアーで行けなかった近場は、土日にコンサートを組んでいました。ただ、専属デザイナーだった早川タケジさんの衣装は繊細で、地方でストッキングに刺繍やスパンコールなどがついた衣装がほつれたりすると、ぼくがテグスや針金で直していました。最初は緊張もあって、手の震えが止まりませんでしたね。國:当時の目が回るような忙しさの中で、記憶に残る思い出はありますか?西:北海道のツアーから帰って来たときのことですね。「最近食べてないから、しゃぶしゃぶでも行こう」と沢田さんが赤坂の店に連れて行ってくれた。それが初しゃぶしゃぶだったので、いい思い出になっています。それと、いつも助手席に乗る沢田さんが、『ダーリング』発売の直後に一度だけ後部座席に乗り、会話をしなかったことがありましたね。 それは沢田さんのお母さんが亡くなった日だったんです。山梨でコンサートを終えて帰京後、運転手と車で京都の実家へ直行。仕事があったので朝には東京に戻り、葬儀は数日後でした。國:ジュリーは野球少年で、スターになってからも草野球を続けていたから、守くんが採用されたのは、野球のおかげだったりして……。西:はい。「自分、野球できる?」と沢田さんに聞かれて、「大阪の大鉄高校で野球をやっていました」と答えたので、おそらく(笑い)。 その期待に応えて、沢田さんの草野球チーム『ジュリーズ』ではホームランを打ったこともありますよ。1979年1月末で、付き人はやめましたが、その後も、ぼくが所属していた『ウォーターエンタプライズ』という事務所の草野球チームで、『ジュリーズ』と対戦したことがあります。そのときのメンバーは、ショーケンや大友康平さん、永井龍雲さんなど豪華でしたね。國:私は広島にいた時期があるのですが、当時はファンクラブ広島・山口支部に入っていて、ジュリーが全国ツアーで広島に来るときは、ぜひプライベートで野球大会をしてほしいと、関係者にお願いして、当時の所属レーベル『ポリドールレコード』の広島営業所チームと『ジュリーズ』が対戦したんです。おかげでユニフォーム姿のジュリーを近くで見ることができ、感激しましたね。西:沢田さんの背番号は26なんですが、それは26才で野球チームを作ったから。毎日忙しくて大変でしたが、私には楽しい青春の日々。憧れの沢田さんの戦友でもあった一年でしたね。【プロフィール】西澤守/タンゴ歌手。1958年生まれ、北海道函館市出身。19才からジュリーの付き人を1年間務めた後、歌手・俳優デビュー。現在もタンゴ歌手として活躍中。國府田公子/1954年生まれ、広島県呉市出身。ジュリーファン歴53年。WEBサイト『Julie’s World』を運営・主宰。著書に『沢田研二大研究』(青弓社)がある。取材・文/北武司 写真/女性セブン写真部※女性セブン2021年9月2日号
2021.08.24 07:00
女性セブン
沢田研二ソロ50周年 伝説はここから始まった!白馬の王子様からの七変化
沢田研二ソロ50周年 伝説はここから始まった!白馬の王子様からの七変化
 まばゆいばかりの1970~1980年代をリードし、平成を駆け抜け、令和でも精力的に活動するジュリーこと沢田研二(73才)。いまも、輝き続けているジュリーの魅力に迫る──。「ジュリーは、人生がロックそのもの」と、沢田好きで有名なミュージシャンのダイアモンド☆ユカイ(59才)は熱く語る。「常に新しいジュリー像を作り出そうと戦ってきた人。過去よりもいまのベストな表現を求め、思い切り生きるジュリーは永遠のロックスターです」(ユカイ) 伝説は1967年、19才でバンド『ザ・タイガース』のメンバーとしてデビューしたことから始まる。 ジュリーと呼ばれるようになった経緯を、沢田は自叙伝(『我が名は、ジュリー』中央公論社)の中でこう明かす。《僕ははじめ、沢ノ井謙(※1)になりかかったんです。僕はジュリー・アンドリュースが好きだった。(中略)ステージで、ジュリーですと言ったら、ファンの人がすぐそう呼んでくれて~》(※1 「沢ノ井謙」は、デビュー前からの恩人で先輩ミュージシャンの内田裕也さん(享年79)が考案し、ジュリーにすすめた幻の芸名) いまから54年前のことだ。『シーサイド・バウンド』『君だけに愛を』『銀河のロマンス/花の首飾り』などのヒットで、ザ・タイガースは一躍スターダムへ駆け上る。だがその活動は4年で終了し、ソロ・沢田研二が、1971年に誕生する。 そんな《草創期》のジュリーに魅了された、とダイアモンド☆ユカイは言う。「ぼくがファンになったのは小学3年生の頃。親友から『沢田研二ってかっこいいんだよ』と教えられ、首を振りながら『許されない愛』を歌うジュリーの姿を見たのが最初です。女子が熱狂していた “新御三家”(※2)とは違う大人っぽさを感じ、ジュリーでかっこよさに目覚めたんです」(ユカイ)(※2 新御三家は、1970年代に男性アイドル歌手として絶大な人気を得た、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の3人の総称)白馬の王子様からイメージが七変化 1971年はジュリーにとって激動の年だった。ザ・タイガースが解散し、ソロデビューするまでの間に、『PYG(ピッグ)』(※3)という6人組のロックバンドも結成している。(※3 PYGは、1971年にザ・タイガース、ザ・テンプターズ、ザ・スパイダースから2人ずつメンバーが集結。沢田研二と萩原健一さんがツインボーカルを務めた)「ただメンバーのショーケン(萩原健一さん、享年68)が役者に傾倒し、PYGはほどなく自然消滅しました」 そう当時を振り返るのは、50年来のファンで『沢田研二大研究』(青弓社)の著者である國府田公子(こおだ・きみこ)さんだ。「その後、ソロになったジュリーは、当時はフルバンドで歌うのが当たり前だったテレビ局の常識を覆し、自前のバンドで歌番組に登場。歌謡界に風穴を開けたんです」(國府田さん) また、音楽評論家のスージー鈴木さんは、「いまから考えるとソロ初シングルが『君をのせて』で本当によかった」と語る。「 “日本版・明日に架ける橋”と評する声もあるほど。ロックバンドへのこだわりが強かった沢田研二の、シンガーとしての側面を見ることができた、傑作バラードでしたね」(スージーさん) その『君をのせて』の作曲者・宮川泰さんが、《君の色気は天下一品。男が惚れる色気で、千年に1人出るかどうかのスーパースター》(※4)と評したように、色気とルックス、甘い歌声が作家陣の創作意欲をかき立てた点も見逃せない。(※4 2001年放送で沢田研二出演の『スタジオパークからこんにちは』(NHK)で紹介された手紙より)「沢田研二は、新曲ごとにイメージの殻を破る。そこがすごいところ」(ユカイ) オリコン1位と日本歌謡大賞を初獲得した『危険なふたり』は、作詞・安井かずみ、作曲・加瀬邦彦による軽快なロックだが、その後も沢田の変化は続く。「PYG結成時は“白馬の王子様のジュリーが不良になっちゃうのでは”と心配しましたが、その後、さらにイメチェンに拍車がかかりました」(國府田さん) フランス志向の曲も発表し、アイシャドーなどのメイクにも挑戦し始める。「沢田さんのスタッフをしていた知人の話では、沢田さんは、『なんでも自分の歌にする!』というスタンスなのだそうです。つまり、どんな曲でも自分の歌にしてしまう自信と、作家が要求する“まな板の鯉”になる覚悟がある。それがいかに圧倒的な才能に裏打ちされたものか。同じシンガーだからこそ、その凄(すご)みがわかるんです」(ユカイ)【ダイアモンド☆ユカイの沢田研二『わが心のベスト3』】1位『時の過ぎゆくままに』(1975年)作詞:阿久悠、作曲・編曲:大野克夫ドラマ『悪魔のようなあいつ』(TBS系)の主題歌。大野克夫さんの曲はコンペで選ばれた。2位『気になるお前』(1973年)作詞:安井かずみ、作曲:加瀬邦彦、編曲:Harry Robinson洋楽的な魅力の隠れた名曲。コンサートでも人気で、ユカイ自身もカバーしている。3位『魅せられた夜』(1973年)作詞・作曲:J. Renard、訳詞:安井かずみ、編曲:東海林修ソロ草創期のフレンチポップス系の楽曲。【プロフィール】ダイアモンド☆ユカイ/ミュージシャン。1962年生まれ、東京都田無市出身。『RED WARRIORS』のボーカルとしてデビュー。俳優、声優、タレントとしても活躍中。取材・文/北武司 撮影/浅野剛 写真/女性セブン写真部 ※女性セブン2021年9月2日号
2021.08.23 11:00
女性セブン
渡辺えりが語る理想の老後 目指すは地元・山形の農家で働く80代女性たち
渡辺えりが語る理想の老後 目指すは地元・山形の農家で働く80代女性たち
 人生100年時代のいま、65才は「折り返し地点」に過ぎない。翻っていえば、この時期をどう過ごすかによって後の人生の豊かさが変わってくる。65才を超えて、芸能界で精力的に活動する女優の渡辺えり(66)は、このターニングポイントをどう見つめているのか、話を聞いた。【写真】渡辺えりが最近夢中になっている「ジュリー」こと沢田研二(過去のライブ写真)「つい先日、ちょっとショックなことがあって──」 そう語り始めた渡辺。聞けば、新型コロナのワクチン接種会場でのことだという。「さあ、これから打とうというときに、お医者さんから『お名前を、はっきり、大きな声で、言ってください。1回目、ですよね?』と、それはゆっくりした口調で、まるで諭すように言われてしまいました」(渡辺・以下同) 今年で66才。確かに世界保健機関(WHO)の定義では“65才から高齢者”だが、見た目はまだ中年の域。当の本人は、実年齢を思い知らされたと苦笑いする。「ワクチン接種のための高齢者向けマニュアルがあるのでしょうね。“ああ、お年寄りってこういう扱いなんだ!”と思いました」 高校時代に見た戯曲『ガラスの動物園』に衝撃を受け、卒業後、舞台芸術学院に入学。23才の若さで劇団を旗揚げしてからは、女優のみならず、劇作家、演出家としても活躍する。自らの強い意志で芝居一筋の人生を突き進んできたように見えるが、最も後悔しているのは、意外にも「子供を持たなかったこと」だという。「実は20代のときに結婚したいと思う人ができて、私は仕事を辞めるつもりでいたんです。でも、父親に反対されて、結局、諦めました。当時はまだ、女性が子育てと仕事を両立させるのも難しくて、私は芝居を選んだわけですが、まさに後悔先に立たず。 後年、養子をもらうことも考えたのですが、調べてみるともろもろ厳しい制限もあり、断念せざるを得ませんでした。いまだに子供がいる夢を見ることがあるほど、心の底から後悔しています」 1995年に13才年下の舞台俳優と結婚。23年連れ添ったが、2019年に離婚してからは、終の住処として購入したマンションに愛猫1匹と暮らす。そんな2度目の独身生活を彩るのは、「ジュリー」こと沢田研二(73才)の存在だ。「子供のときから大ファンでしたが、離婚する少し前からその熱が再燃しちゃって。毎晩、YouTubeでジュリーの動画を見るようになり、“気がついたら朝4時”なんてことも。Facebookにあるファンの集いのページにも登録していて、ジュリーの誕生日には、みんながそこにお祝いの言葉を書き込みます。結婚してようが独身だろうが、6月25日はファン全員が『おめでとう!』と言い合うんです。 寂しいときに、パソコンを開いたりテレビをつけたりすればいつでも会えるスターの存在は、女性にとって大切だと思うんです。憧れの人がいるだけで、気持ちがウキウキ、華やかになれますから」月に1度は両親に会いに行く 65才までに経験してよかったと思うのは、仕事で世界各地を訪れたことだと渡辺は語る。現地で受けた刺激は、何物にも代えがたい宝物だ。「2008年に訪れたルーマニアには、私が生まれた昭和30年当時の日本とまるで同じ風景がありました。農家の荷車に乗せてもらい、放牧された牛や羊を眺めていたことを覚えています。現地の人の優しさに触れて、真っ赤な夕焼けを見たら、もう涙が止まらなくなってしまって……。 一方で、フランスではオルセー美術館の絵画の、本で見るのとは違う迫力に圧倒されました。いずれ体力的に飛行機に乗ることが難しくなるでしょうから、行けるうちに行っておいてよかったです」 海外渡航が難しいコロナ禍では、地元で暮らす90代の両親のことを考える時間も増えた。月に1度は、山形に戻って実家で暮らす父親と介護施設にいる母親に会いに行く。「両親とも認知症で、私も高齢者です。老いを感じるけれど、自然現象だからそれでいい。いまの時代、いつまでも若々しくいることに重きを置く人も多いけれど、それは自分を苦しめるだけ。老いを受け入れながら、人生を楽しむ方がいい」 そんな渡辺が理想とするのは、地元・山形で働く農家の女性たちだ。「皆さん80代で腰は曲がっているけれど、一緒にお風呂に入ったら、すごく筋肉質なんです。早起きして農作業をして、体を鍛えているからこそなんでしょう。それに、“おいしいものを食べさせたい”と、人のために働いているからだと思うんです。人間は、自分だけのためには生きられないもの」 渡辺も演劇で人を笑顔にしたいという思いを持ち続けている。コロナ禍で舞台を取り巻く状況が厳しいいまも、精力的に活動する。パワフルでいられる秘訣は何なのか。「健康のために何かやろうと思ったことは、一度もないんです。人生すべてを芝居に捧げていますから、体を鍛えるのも、芝居のため。劇場に行くと、ここが私の居場所だと思えて安心します」 8月13日から主演の舞台『喜劇 老後の資金がありません』が控える。同名ベストセラー小説の初の舞台化だ。「私自身、離婚後マンションを買ったのに、コロナ禍で収入が減ってしまい、貯金はゼロ。文字通り、老後の資金はありません。しかもマンションは毎月管理費がかかるんですよね。一生働かなくちゃ、と覚悟を決めました(笑い)。 そもそも、私には老後はないと思っているんです。最後まで女優として輝いた森光子さんや杉村春子さんにも、老後なんてものはなかった。大好きな芝居を見ながら客席で息を引き取るのが、理想の最期かなと思っています」 それはまだまだ先の話──のようだ。【プロフィール】渡辺えり(わたなべ・えり)/1955年山形県生まれ。1978年に「劇団3○○」を旗揚げし、小劇場ブームを牽引する。劇作・演出・女優として活動し、多くの話題作を発表。8月13日からは主演舞台『喜劇 老後の資金がありません』を上演予定。※女性セブン2021年8月12日号
2021.08.01 07:00
マネーポストWEB
ソロデビュー50周年の沢田研二、“意外な顔”見せ続けた役者としての姿
ソロデビュー50周年の沢田研二、“意外な顔”見せ続けた役者としての姿
 70代になってからも歌手として活躍を続ける沢田研二(72歳)。今年、ソロデビュー50周年を迎えている。役者としても、これまでさまざまな素顔を見せてきた。そんな“役者ジュリー”についてコラムニストのペリー荻野さんが解説する。 * * * 今年ソロデビュー50周年となるジュリーこと沢田研二は、1967年、GSバンド、ザ・タイガースのボーカルとして熱狂的な人気を誇り、1971年ソロデビュー後は、甘美な歌声と斬新なコスチュームでヒットを連発。押しも押されもせぬトップシンガー・ジュリーは、多くの名監督から出演を熱望される俳優でもある。 5月以降、CSで多くの出演映画が放送されるが、そのラインナップを見て驚くのは、アイドル映画からシリアスな問題作、伝奇時代劇までジャンルが幅広いこと、どの作品でも「これがジュリー!?」と意外な顔を見せることだ。 たとえば1972年の『虹をわたって』は、当時、人気絶頂の天地真理のアイドル映画。家出したのにいつも鼻歌を歌っているような陽気な娘マリ(天地)を巡る騒動を描く。沢田は白馬ならぬ白いヨットに乗った王子様という姿で登場。 だが、ふたりを乗せたヨットは嵐に巻き込まれる。ジュリーは、ソロデビュー曲『君をのせて』をギター弾き語りする。 単独初主演作となった1974年の映画『炎の肖像』は、沢田が刹那的に生きる“ジュリー”という名のロック歌手として登場。いきなり傷だらけで出てきたジュリーは、そのまま謎めいた女、絵里(中山麻理)と一夜を共にする。しかし、彼女は自殺。彼は戸惑い、彷徨いながら、絵里の身内の少女と知り合う。ロマンポルノでも活躍した藤田敏八・加藤彰両監督演出によるセクシー女優中山との熱烈ベッドシーンは衝撃的。実際のライブシーンが織り込まれ、インタビューも素顔のジュリーで、虚実が入り混じる異色作となっている。 名優・菅原文太との1979年の共演作『太陽を盗んだ男』は、なんと原爆を手製する中学教師役。交番で拳銃を奪い、プルトニウムを盗みだして手製の原爆を作り上げる男は、旧知の山下警部(菅原)を指名して無茶な要求を重ねる。その要求とは、あのバンドの日本公演を実現させること! 激しいカーチェイス、警部との死闘、強烈なラストシーン、今も多くの映画ファンに語り継がれる作品だ。 そして1981年、深作欣二監督による『魔界転生』。島原の乱で殺された天草四郎(沢田)が悪魔の手を借りて復活。魔界から宮本武蔵(緒形拳)など強者たちを蘇らせ、大奥にも魔の手を伸ばして徳川政権を操ろうとする。その魔界衆を阻止するため立ち上がったのは柳生十兵衛(千葉真一)だった。アクション、スペクタクル、お色気、なんでもありダイナミックな展開の中で、伊賀の霧丸(真田広之)に四郎がキ! やめてー!!(ジュリーと真田ファンの叫び)金色の目を光らせた四郎の妖しさは夢に出そうである。 ドラマでは光源氏や三億円強奪事件の犯人を演じたこともある。これだけ演じる役が特殊で幅広いのは、「もしもこの人物をジュリーが演じたら」と一流の作り手も視聴者も強く興味を惹かれるからだ。 8月には、主演映画『キネマの神様』が公開される。かつて映画に夢を抱き、今はギャンブル好きのダメ親父という役柄。映画ではずっと「これがジュリー!?」と驚かされてきたが、山田洋次監督がどんな沢田研二を見せてくれるのか。亡き友人・志村けんさんへの思いを抱きつつ演じたジュリーに期待したい。
2021.05.05 07:00
NEWSポストセブン
【動画】沢田研二、直撃に無言で去る ファンクラブ、事務所閉鎖…
【動画】沢田研二、直撃に無言で去る ファンクラブ、事務所閉鎖…
 ファンクラブを解散し、個人事務所を閉鎖したと報道された沢田研二さん。新型コロナウイルスに感染して亡くなった志村けんさんの遺志を引き継ぎ、14年ぶりの映画主演した『キネマの神様』の公開日にも難色を示しているそうです。 2月下旬、妻の田中裕子さんと散歩を楽しむ沢田さんを直撃し、事務所の閉鎖や映画の公開延期について尋ねると無言のまま立ち去ってしまいました。コロナが落ち着いた暁には全国のファンに元気な姿を見せてほしいですね。【↑ 上の写真クリックで動画へ】
2021.03.08 07:00
NEWSポストセブン
沢田研二に何が? ファンクラブ、事務所閉鎖に主演映画も延期
沢田研二に何が? ファンクラブ、事務所閉鎖に主演映画も延期
『君をのせて』(1971年)でのソロデビューから50年目となるジュリーこと沢田研二(72才)。昨年、新型コロナウイルスに感染して亡くなった志村けんさん(享年70)の遺志を引き継ぎ、14年ぶりの映画主演を決意した彼に、ファンの間では称賛の声が上がっていたが、ここにきて不穏な動きを見せ始め──。「試写会も終わり、後は公開を待つだけなんですけどね。本当によい作品に仕上がったので、早く多くのかたがたに見ていただきたいのですが……」 複雑な面持ちでこう話すのは、映画『キネマの神様』のスタッフだ。『キネマの神様』は、松竹映画の100周年を記念して製作された大作映画。人気作家・原田マハの小説を原作とし、山田洋次監督(89才)がメガホンを取った。 主演には志村けんさんと菅田将暉(28才)が抜擢されたが、撮影を目前にして志村さんは新型コロナウイルスに感染し、帰らぬ人に。さらに、コロナの影響で昨年4月からの撮影は中断。当初12月予定だった公開は大幅にずれ込んだ。 志村さんを失ったことで、一時はお蔵入りの危機にもあったという本作。その窮地を救ったのが、志村さんの代役に白羽の矢が立った沢田研二だった。「厳しいスケジュールの中、なんとか撮影を終えました。緊急事態宣言も明けているだろう今年4月16日の公開を目指して、急ピッチで編集作業などの準備を進めてきました」(前出・映画スタッフ) しかし、2月中旬、突如公開の再延期が発表された。新たなスケジュールは現状、明らかになっていない。準備はほぼ終わっているというのに、いったいなぜ。その裏にあったのは、ほかならぬあの人の存在だった。「実は、沢田さんが4月の公開を承諾していないそうなんです。それどころか、最近は“窓口”も閉鎖して連絡もつきにくくなっているとかで」(前出・映画スタッフ) 本作の撮影に並々ならぬ決意で臨んでいた沢田。志村さん亡き後、山田監督から直々に代役のオファーを受け、その場で快諾したという。「沢田さんは、かつて志村さんと同じ事務所に所属しコント番組『8時だョ!全員集合』などの番組でも共演経験があります。沢田さんは2006年を最後に映画出演から遠ざかっていましたが、盟友ともいえる志村さんの代役とあって、覚悟を決めて挑んだそうです。撮影では、毎回すさまじいほどの集中力で迫真の演技を見せ、14年ものブランクをまったく感じさせませんでした」(芸能関係者) その沢田がなぜ、映画公開に難色を示しているのだろうか。実は、ここのところ沢田をめぐって、いくつかの異変があった。その1つがファンクラブの解散だ。「昨年末、突如ファンクラブを解散したんです。昨年は、コロナのあおりを受けて、沢田さんもライブなどの音楽活動は中止を余儀なくされていました。そんな中で年末、ホームページに突然、新型コロナの収束が見えないとして『令和2年12月26日をもってファンクラブを解散する』と書かれた文章が発表されていたんです」(音楽関係者) 続いて、年が明けて1月には個人事務所を閉鎖したと報道された。「事務所の代表は、以前と同じく『ザ・タイガース』の仲間だった岸部一徳さんで、登記上は役員の入れ替わりもなく、破産の形跡もない。それなのに、電話がまったくつながらなくなり“音信不通状態”になっているのです」(テレビ局関係者) コロナ禍で活動が制限されているとはいえ、沢田には根強いファンがいまもたくさんいる。「ファンクラブと事務所の閉鎖は、音楽業界でも話題になっています。『ジュリーはもう芸能活動を引退するのか』、『あの歌声をもうライブで聴くことはできないのか』などと多くの業界関係者が衝撃を受けていました」(前出・音楽関係者)「時期をずらしませんか」 そして極めつきが、今回の延期騒動だ。沢田には、2018年に「会場が満席になっていない」としてさいたまスーパーアリーナでのライブをドタキャンした過去がある。「このドタキャン騒動のインパクトが強すぎて、今回の映画の延期についても『またドタキャンか!?』とザワついたスタッフもいました。でも、事実は違うんです。原因は新型コロナ。実は沢田さんは、糖尿病の持病があって、感染を人一倍恐れているんです」(前出・映画スタッフ) 基礎疾患を抱えている人はコロナに感染すると重症化しやすいとされているのは周知のとおり。特に糖尿病の場合は、血糖値をうまくコントロールできないと重症化や死亡のリスクが2~2.5倍にまで高まることが報告されている。「撮影の現場でも、沢田さんはスタッフに闘病を明かし、感染予防のため、細心の注意を払っていました」(前出・映画スタッフ) 代役のオファーを引き受ける条件として、沢田は「映画の宣伝のためにテレビや舞台挨拶に出ることはできない」と提示していたという。「でも、映画の撮影が順調に進み、多くの人に見てもらいたいという気持ちがより強くなったのでしょう。7月にクランクアップを迎える頃には、『できる範囲で協力したい』という姿勢に変わっていたそうで、いまでは宣伝スタッフも大きな期待を寄せています」(前出・映画スタッフ) しかし、ここでも沢田は強いこだわりを見せた。「宣伝をやるからには、心置きなく全力で取り組みたいそうです。でも、テレビや舞台挨拶に登場すれば、その分多くの人と接することになる。山田監督もご高齢ですし、宣伝に駆けずりまわって感染リスクが上がることを恐れているんです。 コロナがもう少し収まってからという思いが強く、沢田さんが『時期をずらしませんか。万全の態勢でこの作品を届けたいんです』と山田監督を必死に説得して再延期が決まったというわけです。つまりこれは彼なりの男気なんですね。 映画の延期は、沢田さんの体調悪化が原因なのではないかと心配していたスタッフもそれを聞いて安心していました」(前出・映画スタッフ) 奇しくも沢田にとって、今年はソロデビュー50周年の記念すべき年。彼自身もそれをまったく意識していないわけではないだろう。「50周年記念として、4月28日には、1973~1990年のTBSの出演映像を集めた7枚組のDVDボックスが発売されます。『8時だョ!全員集合』はもちろん、『ザ・ベストテン』『日本レコード大賞』での歌唱シーンも収録され、ファン垂涎のDVDになることでしょう」(TBS関係者) さらに、所属事務所の一件も「現在は、仕事の窓口を妻で女優の田中裕子さん(65才)が所属する『アニマ出版』に移しているそうです」(別の芸能関係者)という。 2月下旬、寒さも和らぎ春の訪れを一層強く感じさせる日、田中とともに散歩を楽しむ沢田の姿があった。黄色いサングラスにニット帽をかぶった田中と、大きなマスクを鼻の上までしっかりと装着している沢田。どことなくリンクするふたりの服装は仲のよさを感じさせる。 事務所の閉鎖や映画の公開延期について尋ねたが、無言で立ち去った。コロナが落ち着いた暁には、全国のファンに元気な姿を見せてほしい。※女性セブン2021年3月18日号
2021.03.05 07:00
女性セブン
30年超の高見沢俊彦ファン 長続きのコツは「のめり込みすぎない」
30年超の高見沢俊彦ファン 長続きのコツは「のめり込みすぎない」
 ひいきのアイドルや俳優、キャラクターなど(=推し)を思いっきり応援する「推し活」について、本誌『女性セブン』読者1175人にアンケートを実施。「あなたは推しがいますか?」という質問に対して、「いない」は28%、「いる」が72%という結果になった。実に7割の人が「推し」から、癒やしや活力をもらっているということだ。 さらに「あなたの『推し活』歴を教えてください」という質問をしたところ、「2年以上10年未満」が36%、「10年以上25年未満」27%、「25年以上50年未満」が12%、「50年以上」が1%という結果になった。 今回の回答では、推し活歴2~5年程度の人が多数派だったが、一方で、郷ひろみや、浜田省吾やB’z、X JAPANなど、時代を築いたミュージシャンには推し歴30年以上のコアなファンがついていた。 どうしたらそんなに長く推し続けられるのか。アルフィーの高見沢俊彦推し35年のほんのりさん(仮名)は、こう話す。「あまりのめり込みすぎないことでしょうか。個人的に好きではないな、という時期はライブに行きませんし。それでも、彼らの音楽が好きだから、CDだけは安否確認的に欠かさず買っています。気がついたらほとんど家族に近い感覚。いまや見守り態勢に入った感じです(笑い)。なんだかんだ言っても、高見沢さんの天然キャラと華麗なギタープレーのギャップはやっぱりいいんですよね」 推し歴50年以上の沢田研二の熱烈なファンであり、『沢田研二大研究』の著者である國府田公子さんも「確かに容姿はだいぶ変貌しましたが、ジュリーの人間性は変わらないので、太ったくらいで嫌いになる理由がないんです」と言う。 長く愛し続けられる推しがいるということを羨ましく感じる人も多いのでは?取材・文/佐藤有栄 ※女性セブン2021年1月28日号
2021.01.20 07:00
女性セブン
2代目付き人から託されたステージ写真
50年以上の沢田研二ファン 付き人からもらった台本や資料を公開
 1967年に「ザ・タイガース」のメンバーとしてデビューし、1970年代以降はソロシンガーとして日本歌謡界をリードした永遠のスター、「ジュリー」こと沢田研二。そんなジュリーひと筋50年以上という熱心なファンで『沢田研二大研究』の著者でもある國府田公子さん(67才)に、その魅力を教えてもらうとともに、所蔵する貴重なお宝を紹介してもらった。 * * * 実は、私の友人がジュリーの2代目の“坊や”(付き人)をやっていた時期があったんです。彼は大阪の人で、ジュリーのバックでギターを弾いていた「井上堯之バンド」のファンで、井上さんのファンクラブのお手伝いをしていたのですが、それがきっかけで、ジュリーの坊やにならないかと声がかかったようなんです。 彼とは仲よしでしたが、私が結婚をして、忙しくなってからは音信不通に。25年ぐらい経った頃、共通の知人を介して再会しました。 彼はいま、芸能関係とは違う仕事についているのですが、付き人として、さまざまな現場について行ったときの貴重な資料を「公子さんに託すよ」と言って、あれこれ渡してくれたのです。その1つがこの衣装写真。 ジュリーがいつどこのステージでどんな衣装を着ているのかを記録しておくもので、写真とともに「○月○日、日劇」などとメモが添えられている。ジュリーの歴史を知る上でもかなり貴重な資料ですから、預かった以上は、大切に厳重に管理をしています。映画やコンサートの台本 これも友人の元坊やから託されたもので、ジュリーが出演した映画やドラマ、コンサートの台本です。 コンサートの台本は、バンドの演奏がいつ入るか、どのような演出がされるかなどが書かれています。『源氏物語』は、1980年の正月にTBS制作で放送されたスペシャルドラマ。これに赤いペンでいろいろと書き込まれています。見ると、おそらくジュリーの字。 現場での演出やシーンの変更点などが記されています。丁寧な字で書かれていて、これを見ると、まじめな性格なんだなということがうかがい知れるのです。ジュリーに渡したヒット祈願のしゃもじ これは1977年の写真。この年に発売した『勝手にしやがれ』がレコード大賞を獲れるように、広島県・宮島の嚴島神社で祈願してもらったしゃもじです。 一緒に写っているのは広島・山口支部のメンバー。このときジュリーは広島でコンサートをしていて、このしゃもじをジュリーに直接、手渡すことができました。 年の瀬で、たしかレコード大賞発表の3日前だったかと思うのですが、関係者にお願いして楽屋でお渡しすると、「おおきに」と言って、受け取ってくれました。 その後、楽屋を出て、廊下で感激していると、「誰か、裁縫できる人いてない?」と毛皮を持ったジュリーがつかつかと出てきました。どうやらプライベートの毛皮のコートの一部がほころんでいたみたいなんです。 私ともう1人の子が裁縫ができたので、「はい! やります」と言って、自分の持っていた裁縫道具(針と糸)でほころんだところを縫いました。その衣装のほかにもいくつか縫ってさしあげたことを覚えています。 それらをお渡しすると、また「おおきに」と言ってくれ、天にも昇るような気持ちになりました。 私たちファンはジュリーが健康でいてくれることがいちばんなんです。2018年にコンサートをドタキャンしたときも、まず、病気じゃなくてよかったと思いました。 私たちはジュリーが決めたことに従うだけ。あとは、あの歌声を長く聴かせてくれること。ジュリーは88才まで歌い続けたいと言っていますが、100才まで歌ってほしい。そこまで私も長生きをして、一生、ついていきますから。【プロフィール】國府田公子さん/ファン歴53年。広島県出身。1998年から私設ファンサイト「Julie’s World」を立ち上げ、その内容をまとめた『沢田研二大研究』(青弓社)を2019年に出版。不動産会社勤務。取材・文/廉屋友美乃 写真提供/國府田公子さん※女性セブン2021年1月28日号
2021.01.19 11:00
女性セブン
50年来のファンが語る沢田研二「厳しいことを言うと喜んで下さる」
50年来のファンが語る沢田研二「厳しいことを言うと喜んで下さる」
 1967年に「ザ・タイガース」のメンバーとしてデビューし、1970年代以降はソロシンガーとして日本歌謡界をリードした永遠のスター、「ジュリー」こと沢田研二。今回は「ジュリーひと筋50年以上」というファンで、『沢田研二大研究』(青弓社)の著書がある國府田公子さんに、貴重な“お宝”を公開していただくとともに、ジュリーの魅力を語ってもらいました。 * * * ジュリーを好きになったのは「ザ・タイガース」時代から。中学1年生のときにテレビ番組で『シーサイド・バウンド』を歌っている姿を見て、「なんてかっこいい、素敵な人なんだ」と、ただただ魅せられて、そこからジュリーひと筋。それこそ、ジュリーが載っている週刊誌はすべて買って、その部分を切り抜いて部屋中に貼っていました。ファンクラブの会報 ファンになってから2年半ほどが過ぎた高校1年生のある日、とある雑誌で、JFC(ジュリー・ファン・クラブ)を知りました。JFCからミニコミ誌『JFC』が年に数回出るのですが、ファンたちがそこにジュリーに対する思いを書いていました。 1960~1970年代、ジュリーは東京・銀座のジャズ喫茶でも歌っていたのですが、そこで『JFC』が渡され、ジュリー本人が読むんです。『JFC』にメッセージを投稿すれば、ジュリーが読んでくれる!と思うと、胸が高まり、ラブレターを書くような気持ちで、新曲の感想やジュリーの魅力を懸命に綴ったことを覚えています。ジュリー直筆の感謝状 その後、「沢田研二ファンクラブ」が発足しました。広島・山口支部もできて、そこの活動に参加するようになりました。この支部にも『LIBERTTY(リバティ)』という名の会報があり、ジュリーの活動報告やコンサートの感想などを私たちが手書きで寄せていました。「ザ・タイガース」デビューから10年目、ジュリーから支部あてに直筆メッセージが届きました。これはコピーですが、「澤田研弐」とある。澤田はジュリーの本名の綴りですが、「弐」はなんだったんでしょうね。当時のジュリーのこだわりかもしれませんね。 そうそう、ジュリーは、自分のファンがただ「かっこいい~、素敵~」などと、通り一遍の感想や上辺だけの言葉を言うだけでは喜ばないんです。「あそこの演出がいまひとつだった」「こうした方がいいかもしれない」というような、作品やステージに関する率直な意見や感想、それもちょっと厳しいことを言うと喜んでくださるんです。 きっと、“ここまで自分のことを見てくれているんだ”と、ファンを信頼してくださっているんだろうと想像していました。だから私も、ただほめちぎるだけじゃなく、改善してほしいところ(と言うと偉そうですが)、楽曲やステージに正対した意見や感想をきちんと書くようにしていました。野球大会での奇跡のショット ジュリーは野球少年。スターになってからも、趣味で野球を続けていました。これ(左写真)は、広島公演のときに、所属していたレコード会社「ポリドール・レコード」の広島営業所の社員たちと広島市内で野球大会をしたときの一枚です。 私たちファンクラブ広島・山口支部から、いつも広島で野球大会をしてほしいと関係者にお願いしていました。だから、自分たちも関係者として特別に球場に入ることができました。こんな間近でジュリーを見ることができるなんて……と胸がいっぱいだったことを覚えています。ジュリーは背番号「26」で、たしかピッチャーでした。投げる姿も打つ姿も美しかったです。公式ブック 1985年に出版されたジュリーの公式本『我が名は、ジュリー』(中央公論社)は、全編、エッセイストの玉村豊男さんとの対談形式で、よくここまで語ったなと思うぐらい、いろんなことが綴られています。 面白いのは、中学時代の通知表や最初の奥さん(元「ザ・ピーナッツ」の伊藤エミさん)との婚姻届、健康診断で撮ったレントゲンの写真などのコピーが随所随所に綴じ込まれていることです。よく見ると、ジュリーは中学校のときの音楽の成績が「3」なんです。それ以外は4と5。成績優秀だったんですね。【プロフィール】沢田研二(さわだ・けんじ)/1948年6月25日生まれ。京都府出身。1967年、ザ・タイガースでデビュー。『シーサイド・バウンド』や『君だけに愛を』などで人気を博す。1971年11月、シングル『君をのせて』でソロデビュー。1973年4月に発売した『危険なふたり』が65万枚を超えるヒットに。1977年5月に発売した『勝手にしやがれ』で第19回日本レコード大賞を受賞する。シングルは75枚、オリジナルアルバムは45枚(いずれも沢田研二名義)。2021年には山田洋次監督の『キネマの神様』に菅田将暉とともにW主演する。國府田公子さん/ファン歴53年。広島県出身。1998年から私設ファンサイト「Julie’s World」を立ち上げ、その内容をまとめた『沢田研二大研究』(青弓社)を2019年に出版。不動産会社勤務。取材・文/廉屋友美乃 写真提供/國府田公子さん※女性セブン2021年1月28日号
2021.01.18 16:00
女性セブン
伊藤つかさ『少女人形』のジャケット写真
最強の昭和ポップスは? 貴重な存在だった「伊藤つかさ」
 世代を超えて、長く愛され続けている昭和のヒット曲。令和になっても、ゴールデンタイムのバラエティー番組で昭和歌謡が特集されたり、日本の“シティーポップ”が世界的に流行したりと、日本の音楽界を彩った昭和ポップスが人気なのだ。そこで、昭和ポップスに詳しい俳優・歌手の半田健人さん、昭和歌謡ライターの田中稲さん、Webデザイナー&サイト運営するさにーさんの3人が集結し、“最強の楽曲”を決めるべく、鼎談を開催した。まずは、それぞれが“最強の楽曲”候補として事前に選出した“昭和ポップスMY BEST10”から発表しよう。【半田健人さんのMY BEST10】第1位 バス・ストップ /平浩二(1972年)第2位 みずいろの手紙 /あべ静江(1973年)第3位 また逢う日まで/尾崎紀世彦(1971年)第4位 ひとりじゃないの/天地真理(1972年) 第5位 私はピアノ/高田みづえ(1980年)第6位 あなたの心に/中山千夏(1969年)第7位 君が美しすぎて/野口五郎(1973年)第8位 ふりむかないで/ハニーナイツ(1970年発表、レコード発売1972年)第9位 お座敷ロック/五月みどり(1958年)第10位 ルビーの指環/寺尾聰(1981年)【田中稲さんのMY BEST10】第1位 TVの国からキラキラ/松本伊代(1982年)第2位 青葉城恋唄/さとう宗幸(1978年)第3位 ギャランドゥ/西城秀樹(1983年)第4位 お嫁サンバ/郷ひろみ(1981年)第5位 熱き心に/小林旭(1985年)第6位 少女人形/伊藤つかさ(1981年)第7位 ラ・セゾン/アン・ルイス(1982年)第8位 疑問符/河合奈保子(1983年)第9位 色つきの女でいてくれよ/ザ・タイガース(1982年)第10位 前略、道の上より/一世風靡セピア(1984年)【さにーさんのMY BEST10】第1位 YOUNG MAN/西城秀樹(1979年)第2位 時代おくれ/河島英五(1986年)第3位 あんたのバラード/世良公則&ツイスト(1977年)第4位 S・O・S/ピンク・レディー(1976年)第5位 勝手にしやがれ/沢田研二(1977年)第6位 ハッとして!Good/田原俊彦(1980年)第7位 SEPTEMBER/竹内まりや(1979年)第8位 初恋/村下孝蔵(1983年)第9位 飾りじゃないのよ涙は/中森明菜(1984年)第10位 SWEET MEMORIES/松田聖子(1983年) この鼎談では、それぞれのMY BEST10の6位から4位に注目する。 * * *──6位から4位のランクイン曲を見ていきましょう。半田:6位の『あなたの心に』は、メロディーが本当にシンプル。いまならディレクターがOKしてくれないんじゃないかというくらいです(笑い)。──最近の曲は複雑になりすぎているということですか?半田:そうですね。もう少し音数を抜いていくといいのかなと思います。5位は『私はピアノ』。サザンオールスターズが好きというわけではないんですが、この曲に関しては好き。メロディーがとにかく素晴らしい。ぼくの好きな曲の5本の指に入るお気に入りです。4位は田中さんも思い出の!?天地真理ちゃん。田中:ははは(笑い)。半田:以前、出演したドラマで、主演女優の2人が『ひとりじゃないの』を歌う場面があって。真理ちゃんが歌っているわけでもなく、雰囲気も全然違うのに、とてつもなくいい曲に聴こえたんです。「ああ、誰が歌ってもいい歌なんだと思える曲を作るのがプロなんだな」と、そのときに再認識しました。田中:私の6位は、伊藤つかささんの『少女人形』。これは、曲自体が彼女の存在にぴったり合うっていうのと、少女人形という言葉がいいなと。あと、伊藤さんや菊池桃子さんみたいな歌手はもう出てこないだろうなと思っていて。半田:もう出てこないと……。田中:はい。カラオケが普及したことで、こなれ感なく素朴に歌うのって、逆になかなか難しいと思うんですよね、これからの時代。半田:ものまねになっちゃいますもんね。田中:そうそう! 本当にピュアな状態で歌っていた伊藤つかささんって、いま思えば貴重な存在だったように思います。5位は小林旭さんの『熱き心に』。これはもう聴いた瞬間、雄大な曲だと。私の中で大スターが身近になったじゃないですけど「こういう曲も歌ってくれるんだ〜」って思った、すごい曲なんです。半田:わかりますよ。銀幕スター然とした人で、それまでは映画主題歌を歌っていた小林旭さんが、大滝詠一さんが作るポップスに降りてきたっていうイメージですよね。田中:そう。意外性の発見というか……新鮮さというか。私もたまにカラオケで歌いますが、大変爽快な曲ですね。4位は郷ひろみさんの『お嫁サンバ』。最初に聴いたとき、変な曲だけど楽しい!って思ったのを覚えています。半田:これはもう、郷さんしか歌えないですもんね。田中:そうなんです。80年代特有のお祭り感を感じました。さにー:私の6位は『ハッとして!Good』。田原俊彦さん好きっていうと、意外に思われることもありますが、たしかに歌唱力は微妙かも、ですが、過小評価されている1人だと思うんです。半田:シングル曲のトシちゃんは、うまいんですよね。結局は、何に比べて下手かというと新御三家の3人。でも「これ、トシちゃんだよね!?」ってわかる声と歌い方を持っているのは、それだけでもうプロの歌手なんです。田中:私もトシちゃん大好きです。カラオケで『哀愁でいと』(1980年)を歌うと、あの曲って延々とテンションが低いんですよ。ああいう曲を聴かせられるトシちゃんって、実はすごい歌手じゃないかって、最近思うことがあります。半田:わかる! 田原さんってエンターテイナーでもありますから、ダンスも抜群!さにー:曲のアレンジも好きなのですが、田原さんの曲って、ジャズっぽくスイングしてますよね?半田:そうそう、デキシーランド・ジャズみたいなね。さにー:『チャールストンにはまだ早い』(1984年)がビッグバンド風だったり。田中:いいですよね、あれ!さにー:1970年代までは歌謡曲とワールドミュージックが結構、融合していましたが、私は1980年代バージョンで、それを成功させたのは、田原俊彦さんの楽曲なんじゃないかなと思っているんです。田中:ポール・アンカもトシちゃんに曲を作っています。半田:そう。実は世界的なヒットメーカーが楽曲を提供している。さにー:すごいですよね~。5位の沢田研二さんの『勝手にしやがれ』は“歌謡バー”で、このイントロが流れてくると、お客さんの反応が尋常じゃないんです。曲が始まった途端、みんな立ち上がって「アアア~、アアア~」って。初めて見たとき、かなり衝撃的でした。半田:知らないと、ちょっと怖いかもね(笑い)。さにー:自分たち世代は知らない共通認識みたいなものが、この歌にはあるんだって思ったのが印象的でしたね。そして4位が『S・O・S』です。半田:数あるピンク・レディーの中でなぜ『S・O・S』を選んだの?さにー:この曲は1990年代にNHKで放映されていた『アリスSOS』というアニメの主題歌だったんです。歌っている人もアレンジも違うんですけど。おもしろいのは、私も周りのみんなもアニメのストーリーは忘れているのに、曲は覚えているんですよね。田中:へぇ~。ユーチューブとかで見られるの?さにー:はい、見られます。歌詞も素晴らしいですが、メロディーがすごくいい。半田:あの曲の元になっているのは、井上順さんの『昨日・今日・明日』(1971年)。歌い出しとか、すごく都倉俊一さんらしい。わかりやすくて、テンポもそこまで速くない。さにー:ここという見せ場があるわけじゃないのに、なんか乗っちゃうメロディー。『ひとりじゃないの』でも話に出たように、誰が歌っても耳にこびりついちゃうメロディーの強さがあって、好きなんです。【プロフィール】半田健人/1984(昭和59)年生まれ。『仮面ライダー555』で初主演。2014年に自身初のオリジナル・フルアルバム『せんちめんたる』をCD&LP同時発売。2017年に全曲自宅録音のアルバム『HOMEMADE』をリリース。現在は作曲家やタレントとしても活動している。田中稲/1969(昭和44)年生まれ。大阪を拠点にライターとして活動中。昭和歌謡、ドラマ、懐かしブームなどを中心に執筆。著書に『昭和歌謡 出る単 1008語』(誠文堂新光社)など。CREA WEBにて『田中稲の勝手に再ブーム』を連載中。さにー/1992(平成4)年生まれ。Webデザイナーの傍ら、1970〜1980年代のヒット曲の総合情報サイト『あなたの知らない昭和ポップスの世界』を運営。昭和ポップスの魅力を伝えるため、ラジオやテレビなどにも出演。※女性セブン2020年10月22日号
2020.10.13 07:00
女性セブン

トピックス

公務に邁進されている(6月、東京・港区)
佳子さま「公務に積極的」になられた背景に「皇籍離脱」「結婚」か
女性セブン
亜希
亜希 陰から見守る元夫・清原和博と息子達との「父子鷹」
NEWSポストセブン
披露宴での志摩ノ海と元関脇・逆鉾の長女・清香さん(時事通信フォト)
故・逆鉾の長女が結婚で後継者確定も名門・井筒部屋再興への“高いハードル”
週刊ポスト
SNSでの発信力も大きい新庄ビッグボス(時事通信フォト)
新庄ビッグボスのインスタ投稿が波紋 「ファンとそれ以外の分断を煽る」の指摘も
NEWSポストセブン
クルマ、ギター、アート、スケートボードにもこだわる
長瀬智也、英国のバイク誌に登場 悠々自適な暮らしに「所ジョージ化している」の声
女性セブン
小室圭さんと眞子さん
小室圭さん妻・眞子さんがNYで行きつけのスーパーから見えてきた“妻の気遣い”「日本でいえば『成城石井』」 
NEWSポストセブン
京都の街を歩く舞妓のイメージ(写真/イメージマート)
元舞妓の〈16歳飲酒〉〈お風呂入り〉告発に、花街関係者も衝撃「未成年飲酒には厳しく対応しているはず」
NEWSポストセブン
不祥事を理由に落選したはずなのに、比例で復活されては…(左は塚田一郎氏、右は中川郁子氏/写真=共同通信社)
「不倫路チュー」「USBは穴に…」失言・不祥事で落選しても比例復活するゾンビ議員たち
週刊ポスト
注目を集めるNHK吉岡真央アナ
「ポスト和久田麻由子アナ」候補のNHK吉岡真央アナ 替え歌ダンスで“キャラの強さ”際立つ
週刊ポスト
前田敦子と篠田麻里子の女子会姿をキャッチ
前田敦子、篠田麻里子と六本木で4時間半女子会 元夫・勝地涼との関係は良好に
女性セブン
謎めいたバッグを持つ広末涼子
広末涼子、“破壊力強すぎ”コーデは健在「背中に蜘蛛」私服に続き目撃された「謎バッグ」
NEWSポストセブン
結婚し、日本メディアが情報をキャッチしづらいNYで、デイリーメールが追跡取材(写真/JMPA)
小室圭さん・眞子さん夫婦が「離婚で終わったとしても…」英デイリー・メールが報じた「茨の道」
NEWSポストセブン