出会ったときに、もう死んでいた
しかし、衝撃はもうひとつあった。ブルース・リーに出会ったときに、彼がもう死んでいたことだ。僕らは唖然とした。想像して欲しい、スクリーンに釘付けになり、衝撃を受けた映画の主人公を目撃したとき、そのスターはもう死んでいたのである。これはショックだった。
とにかく、こうなったら過去の作品を漁るしかない、と思った(そして配給会社も当然そう考えた)。残された作品はわずか3本。『ドラゴン危機一髪』(1971)、『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972)、『ドラゴンへの道』(1972)だけだった(死によって撮影が中断された『死亡遊戯』はのちに、代役を立てて『ブルース・リー 死亡遊戯』として完成する)。
残る主演作が3本しかないとなると、似たようなもので間に合わせてでも味わいたいと思うのが人情だ。配給会社もブルース・リー人気にあやかろうと、どんどんこの手のアクション映画を輸入した。そっくりさん俳優も続出した。そして僕らは見た。しかし、ちがう。ちがうのだ。
なぜ、ブルース・リーのアクションだけが輝いて見えたのか。パンチとキックを主体にアクションシーンを構成する香港映画は当時「空手映画」と呼ばれていた。また、ブルース・リーのアクションの源流は少林寺拳法だとも言われていた。しかし実は、ブルース・リーは独自の武術の始祖でもあった。その名はジークンドー(截拳道)という。
ブルース・リーのアクションが独自なのは、映画用に誇張してはいるが、彼が開発した武術によって構成され、撮られていたからだ、と僕は解釈している。特に『ドラゴンへの道』のチャック・ノリスとの戦いのシーンは、ジークンドーの技の見本市である、というようなことを後年、中村頼永の解説で知ることになる。
この中村頼永はダン・イノサント(ジークンドーの継承者。『死亡遊戯』でブルース・リーと激しいヌンチャクバトルを見せている)に直接学び、いまはブルース・リー財団日本支部最高顧問であると同時に、格闘技である修斗のファイターでもある。これを知った僕は、ブルース・リー映画のアクションが格闘技の現場に結びついていると密かに興奮した。