中学時代の村上は、九州選抜の一員として台湾遠征なども経験した。当時の仲間には、増田珠(福岡ソフトバンク)や、先月、引退を表明したオリックスの西浦颯大らがいた。ふたりと共にU-15侍ジャパン入りも目指したが、村上だけが選に漏れてしまう。
高校進学にあたっては、他県の強豪校も考えはしたものの、地元の高校から甲子園を目指し、地元民から応援されるプロ野球選手になる誓いを立て、九州学院に進学する。同校の坂井宏安監督が入学してきた村上を初めて見た時、「こんなに野球のユニフォームが似合う男はいない」と、その着こなしに目を見張った。そして、いざ練習に参加すればとにかくトスバッティングが上手だった。
「しっかり芯でミートするんだけれども、下半身の、とりわけヒザが柔らかく使えていた。私は入学直後から4番を任せた村上に対し『ゴロは打つな。ボールに角度をつけろ』と伝えていました。ボールの下にバットを最短距離で入れて、バックスピンをかけて飛ばしていく。だから凡打でも、高い内野フライはOKだった。三振は確かに多かった。見逃しはダメだが、空振りならいくらしてもいいと指導しました」
贈られた「臥薪嘗胆」
当時は無名の肥後もっこすでしかなかった村上の名はすぐに全国区となる。夏を前に九州学院は早稲田実業との交流戦に臨む。当時、早実には鳴り物入りで入学してきた清宮幸太郎がいた。大勢の記者が、清宮の一挙手一投足を追って熊本までやってきていた。その前で、清宮より先に藤崎台の左中間スタンドに放り込んだのが村上だった。坂井監督が振り返る。
「入学した時から引っ張るだけの選手ではありませんでした。筋肉も性格も赤ちゃんのように柔軟なんです。左打者だからといって右に飛ばそうという意識はなかったし、すべてのコースをフルスイングできるように準備した結果、逆方向にも打球が飛んでいった」
その夏、村上は清宮と共に甲子園の舞台に立つ。だが、4打数無安打で、初戦敗退。甲子園の経験は、結局、この一度きり。その後、村上は中学時代の定位置である捕手として、守備でもチームの要に。高校最後となった2017年夏、前年の熊本地震の爪跡が残る藤崎台球場で、村上は鍛治舎巧監督(現・県立岐阜商業監督)が率いた秀岳館の好投手を前に、クルクルとバットが空を切っていた姿しか印象にない。鍛治舎監督が振り返る。
「変化球を捉えるのが上手な選手でした。ただ、秀岳館には田浦文丸(現・福岡ソフトバンク)と川端健斗(立教大4年)の、145キロを超す左投手がふたりいた。村上君対策はなく、『変化球を見せ球にして、アウトコース高めに真っ直ぐを投げていれば三振がとれる』とだけ指示していた。外角高めは、力が必要となりますが、それを打ちこなすだけの域には達していなかった。卒業から実質3年で100本塁打ですか。見事に克服しましたよね」