結婚・引退・そして女優復帰
その後まもなくして、白川に将来を約束する男性が現われる。相手は日活関西支社の営業部次長。社員と女優という御法度の関係から白川は引退を決意した。日活は「映画界に2度と復帰しない」ことを条件に結婚と引退を認めたという。
本誌・週刊ポスト1973年3月2日号では、引退作『実録白川和子 裸の履歴書』の撮影から新生活までを追っている。劇中でも「このたび縁を持ちまして、団地妻として新しい人生に出発ちます」と引退口上を述べた。そうして「日活の救世主」は、1年3か月の活動期間に約20作品を残して、スクリーンから去った。
結婚を機に白川は、日本初のニュータウンとして人々の羨望を集めた大阪の千里ニュータウンに移住する。
しかし、入居当日から、「恥知らず」「売春女」などといった嫌がらせの電話が相次いだ。さらには「ポルノ女優を追放しよう」という署名運動にまで発展していく。波乱はそれだけに留まらなかった。夫のいない時を見計らって、前妻の友人からの嫌味な電話や、子どもにお使いを頼むと「継子をこき使っている」と嫌味もあった。
ピンク映画時代から苦境を乗り越えてきた白川は、持ち前の負けず嫌いを発揮して、嫌がらせの電話には「はい、ご苦労さん」と毅然とした態度を取り続けた。そのうちに、電話も署名運動も収束していった。
結婚後、日活の経営が悪化し給料の遅配が続くと女優時代の貯金も底をつき、日々の食事に困りはじめた。雑誌のインタビューで白川は当時をこう語っている。
「スーパーは高くて買い物ができないから、自転車で市場まで買いに行った。魚一匹で何日食べられるかも工夫した。長男がパンにバターとジャムを一緒につけたので『なんてぜいたくをするの』と叱ったり」(『週刊朝日』1999年10月8日号)
そうして白川は本当の団地妻としての人生をスタートさせたのだ。
そんな折、一度きりのつもりで出演した『青春の殺人者』(1976年)で女優への想いが再燃。『復讐するは我にあり』(1979年)や『ええじゃないか』(1981年)など立て続けに評価の高い作品に抜擢されたことから、本格的に女優業に復帰し現在も一線で活躍を続けている。
2018年には毎日映画コンクールで、継続的に映画界に貢献している女優に贈られる「田中絹代賞」を受賞した。
団地妻女優から本物の団地妻になった白川和子は、ロマンポルノの女王から映画界の大女優として認められた。彼女の名は映画史に深く刻まれている。
※週刊ポスト2021年12月3日号