「今回このような結果となりましたのは、偏に私の力不足かと悔やんでおります。俳優という留守がちな仕事ではありますが、私が居りながら亡き母の穴を埋めきれず、愛する母のもとへ旅立たせてしまったこと、今はただただ残念な気持ちでいっぱいでございます」
もっと家庭で過ごす時間を増やしていたら、もっと妻に向き合っていたら──松平はそう自分を責め、悔やんだ。松平が愛妻の死を知らされたのは、博多座での公演中。休憩時間中に訃報を聞いた松平は、共演者にも悟られぬよう、直後の舞台で気丈に「オーレ! オーレ!」とマツケンサンバを披露したという。
それまでは仕事に全力を注いできた松平だったが、この日を境に、生活を大きく変化させた。まだ幼い息子とできるだけ多くの時間を共にしようと心を砕き、仕事の予定を調整するようになったという。
「保護者会の役員にも名乗り出て、学校行事などにも精力的に参加していました。また、友里さんが亡くなってからしばらくの間は住み込みの家政婦さんが家事や育児を手伝っていたのですが、2年ほど経った頃、家政婦さんを住み込みから“通い”に変えました。
これも、家事はなるべく松平さんがして、必要なときだけ家政婦さんに来てもらうことで、息子さんとの2人きりの時間を多く作ろうという考えからのようです。以来、毎日のお弁当も松平さんが用意し、キャラ弁など凝ったものを手作りしていたそうです」(前出・松平家の知人)
息子と卓球の練習に励む
日々の過ごし方だけでなく、住まいも変えた。松平は2009年、都心からやや離れた高級住宅街に地上3階、地下1階の3億円の豪邸を構えたが、友里さんの他界後の2012年には売却。マンションに引っ越し、息子と父一人、子一人の生活を送ってきた。
「2人きりの生活には豪邸はあまりに広すぎたのでしょう。息子さんをいつでも目が届く場所にという思いもあったのかもしれません。引っ越しても同じ幼稚園に通い続けられるよう、幼稚園から徒歩で通えるマンションを選びました」(前出・松平家の知人)
松平が再々婚を決意したのは2015年のこと。お相手は、10才年下の一般女性・Aさんだ。
「必死に子育てに励んできたとはいえ、松平さんは仕事で家を空けることも多い。幼い息子のために、母親が必要なのではという気持ちもあったそうです。また息子さんが、Aさんに懐いており、結婚に賛成していたことも松平さんの背中を押したのでしょう。Aさんはもうお孫さんもいらっしゃっていて落ち着いたかたでした」(前出・松平家の知人)