エッセイ集『瓢簞から人生』が話題
熟年再婚同士の夫・ケンコーさんの定年退職後、遠距離週末婚にピリオドを打ち、松山に2人だけの会社を興したのも、〈明るい老後計画〉のため。ところが出演し始めていた『プレバト‼』で、着物姿の〈なっちゃん先生〉はみるみる人気者に。今ではケンコーさんが社長兼マネージャー、長男夫婦が、学校対象の句会ライブ担当と副社長を務め、家族総出で俳句の普及に関わるようになって、9年目に突入した。
句会ライブにしても、発端は教師を辞め、黒田杏子門下の俳人として活動していた1992年当時の愛媛新聞文化部長、〈タカギさんからの宿題〉だった。
正岡子規を生んだ松山の俳句事情や、句会がいかに合理的なシステムかを熱く語る著者に、彼は〈新しい時代の句会ってないんですか。もっと大人数で、もっとダイナミックに楽しめるような方法が〉と言い、その棘のように刺さった宿題への答えが、元国語教師の彼女が〈全校生徒四百人への授業〉として考案した句会ライブだった。
「今に見とけ、やったるわって。そこはもう、意地ですよね。根っこがファイティングにできてるもんで(笑)」
大事な原点がもう1つある。それは母校・宇和島東高校を、アジア各国で伝染病治療に尽力する岩村昇博士が講演に訪れた時のこと。中でも〈サンガイ ジウナコ ラギ〉〈ネパール語で「みんなで生きるために」〉という言葉に感激した彼女は、下校するなり、その興奮を父に語った。〈父はいつものように、静かに聞いてくれ、そして言った。「そうか、岩村はそういう仕事を成し遂げとったのか」〉〈「岩村は、宇中の同級生やった」と〉。
「宇中は旧制・宇和島中学のことで、それ以来、 博士のことは父が52歳の時に癌で亡くなるまで、私たちの間で折々に話題に上るようになります」
元々はエンジニア志望で、予科練に入隊後、まもなく終戦。戦後は家業の特定郵便局を継いだ父は、夏井さんに〈郵便局を継ぐ必要はない。何になるかが大事なのではなく、社会のためにどう生きるかが大事なんだ〉と言い、〈教員は立派な仕事や。子どもらに、サンガイ ジウナコ ラギの心を教えてやって欲しい〉と、あの時の言葉を娘が教師の夢として醸成させたことまで的確に理解してくれた。
「私自身、博士の講演を聴く前から、みんなが幸せな社会って何だろうと悶々と考えていたから、『みんなで生きる』という言葉がカシャッと嵌った感じがある。父にしても元々似たような思いがあったから、あの言葉が強く心に刻まれたんだと思うんですね。
でも、そういうもんじゃないかな? ○○に触発されて○○しましたとか、言葉と心の関係ってそう単純じゃないし、元々漠然とあった形にならない思いに、言葉が寄り添い、着地する。だから忘れられない言葉として心に刻まれる。いうなれば私が俳句の種蒔きと称してやっている活動も全部、『みんなで生きる』ためですから」